主の洗礼日礼拝 (2020年1月12日)
イザヤ42:1-9 使徒言行録10:34-43 マタイ福音書3:13-17
本日の福音書は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面です。イエス様が洗礼を受けられたことは4つの福音書の全てに記録されていますが、このマタイ福音書には、洗礼を望むイエス様に対し「ヨハネはそれを思いとどまらせようとして」という言葉が出てきます。
この箇所全体をもう少し詳しく見てみますと、ヨハネはイエス様以外の人にも、洗礼を拒もうとした様子が描かれています。
7節ではファリサイ派やサドカイ派の人々を強い口調で否定しています。
サドカイ派というのは、神殿で神に仕える祭司や上流階級の人々で、政治家でもありました。彼らはローマと政治的な駆け引きも行わなければならなかったので、腹黒さも持ち合わせており、信仰的な想いだけで神に仕える人々ではなくなっていました。
もう一方のファリサイ人は律法を民に教える専門家で、宗教儀式や決まり事を守ることこそ神様に喜ばれると信じており、律法を守れない人々を見下し、交流することを拒みました。思い上がったその心や態度は、神様から遠く離れていたと言えます。
ヨハネは、こうした人々には悔い改めが無く天の国に入る資格はない、と宣言しました。ただし、その一方で、ルカ福音書においては、たとえ忌み嫌われる徴税人であっても悔い改めた人には洗礼を施したようです。ヨハネは神の代理人として、人々の心のうちを見抜いたのでしょう。
さて、ではイエス様がヨハネの元に洗礼を受けに来たとき、なぜヨハネは授けるのを拒んだのでしょうか。
イエス様がヨハネの元に来る少し前、ヨハネはこのように言っています。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」
当時の社会で靴をがせるというのは奴隷の仕事でしたが、後から来られる方はあまりにも尊いお方なので、自分はその履物に触れる資格すらない。救い主に対する徹底したヨハネの謙遜が現れています。
そしてまた、続けて言います「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」人々の中にある罪の部分を清め、悪しきところを焼き払ってくださる、容赦なく、強い救い主のイメージがあります。
イエス様が突然ヨハネの前に現れたとき、ヨハネはこの方が何者であるのかを一瞬にして見抜来ます。とはいえ、ヨハネのイメージしていた救い主とはかなり違っていたようです。
イエス様はこの時、世間ではまだ何者でもなく、洗い清めるべき一点の罪もない、という以外には、どこにでもいるような平凡なイスラエル人に見えました。しかしイエス様が洗礼を受ける必要などないことは明らかなのです。それなのに、悩める多くの罪人に混じってヨハネからの洗礼を希望しているのです。
力強く世の悪を裁きを行う方のはずなのに、これは一体どういうことなのか、ヨハネはこのギャップを受け入れることができず、「イエス様、謙遜にもほどがあります」と叫びたかったことでしょう。
そのようなヨハネに、イエス様は静かな口調で語りかけます。「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは我々にふさわしいことです」
イエス様は、ヨハネの前で罪に苦しむ無数の人々が列を作るのをご覧になりました。そして彼らと共に歩むことを望まれたのです。なんとか新しく生きなおそうともがいている彼らの姿を、高みから見物なさるのではなく、ご自分も「罪人のひとりと数えられ」、一人一人の真実の友となるために、彼らと同じ洗礼を受けることを望まれ、そこから働きを始めることこそ、神様のご計画にふさわしい正しい、と決心してくださったのです。
ここに集まる私達の多くは、神に招かれて洗礼を受けました。しかしその後の生活はどうでしょうか。このままではいけない、という思いは心の奥にありながらも、「こんな私でも神様は愛してくださるのだから」と開き直ったり、他の言い訳を用意して神様に従わない逃げ道を作ってしまうものです。しかし、洗礼を受けた事実は、永遠に変わらない事実なのです。それがたとえ何十年前の体験であっても、洗礼とはイエス様が私と共に歩んでくださる証です。
何一つ罪のないイエス様が私の生涯の友となってくださった事実を示しているのです。このイエス様の元に立ち返りながら私たちは信仰生活の歩みを進めてまいりましょう。
13日(月)甲信地区の牧師家庭の集まりがあり
諏訪湖に行ってきました
さぞ寒かろうとかなり厚着をしていったのですが
「これでいいのか?」と思うくらい暖かでした
諏訪湖から遠くの山々を臨む
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