2019年6月24日月曜日

さあ、起きなさい(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第2主日礼拝(緑) (2019年6月23日)
列王記上17:17-24 ガラテヤ 1:11-24 ルカ7:11-17

「もう、泣かなくてもよい」。一人息子を失った未亡人の母親に、イエス様がかけられた言葉です。ナインという町から出て、埋葬するために墓場へと向かう人々の群れでした。
 牧師として病床訪問をする中で、高齢のお母さんを残して息子さんが先になくなる、というケースがありました。そんな時、「天国で会えるのだから泣くな」と言うのはなかなか難しいものです。

 ヨハネ福音書に「ラザロの復活」という記録があります。病気で死んだラザロをイエス様が蘇らせてくださる、という記録です。ラザロの姉妹であるマルタとマリアが特別信仰が弱いとは思えませんが、彼女たちは兄弟の死に涙し、イエス様に愚痴の一つもこぼしたくなるような心境に陥ったのです。これが人間の正直なところでしょう。
 ユダヤの人々は幼い頃から旧約聖書を教えられて育っていますから、列王記上のエリヤのこと、特にやもめの息子を復活させた出来事は、誰もが知っている有名な奇跡物語です。しかし、知っているということと、それらの出来事が自分の身にも起こると信じられるかどうかは全く別物です。常識のある一般の人々は人は自分に奇跡が起こるなんて思わないものです。それは2000年前の人々も今の私たちも同じです。

 イエス様は息子を失ったやもめを見て「憐れに思われた」と書かれています。イエス様の方から近づいてくださったのです。この「憐れ」という言葉は、はらわたがちぎれるほどに痛む、という意味を持ちます。イエス様は、悲しむ人と悲しみを我が事とし、ご自分の身を切るほどの辛い思いを共有されていたのです。口先だけでなく、本当に彼女の苦しみを自分の苦しみとされていたのです。

 イエス様は彼女に向かって「もう泣かなくて良い」と声をかけるや否や、さらに近づいて棺に手を置枯れます。ユダヤの風習では死体は汚れたものとされていました。死は罪によってもたらされると考えられていたので、無関係な人々はあえて死体に触ることはあり得ませんでした。イエス様の突然の行動に、その場にいた人々は「触らないでください、汚れますよ」と注意することもできず、あっけにとられていました。そんな人々を尻目に、イエス様はやもめの息子、すでに遺体となっている若者に向かって、「若者よ、あなたに言う、おきなさい」と言われたのです。今風に訳すと「若者よ、さあ起きた、起きた」とような、ちょっとはっぱをかけるような感じです。
 すると「死人は起き上がってものを言い始めた」と聖書には書かれています。冷たくなって棺に収まり、人に担がれて揺られているだけだった、その彼が、イエス様の「さあ、起きた」の一言で起き上がったのです。
 誰が声をかけても虚しかったその若者が、イエス様のたった一言で一瞬にして起き上がる。ここのところを何度も読み返していまして、現代の若者のことにふと思いが至りました。

 先週の火曜日夜に、新潟、山形の方で、震度6強の大きな地震がありました。幸いなことに、人命は失われなかったようです。24年前の神戸のボランティア活動以来、効率的に動けるスタイルが出来上がってきました。何をおいても駆けつける若い人もたくさんいます。日本はそういう国なのだ、と思いたいところなのですが、その逆に、若者と呼ばれる年齢から、30代、40代、50代の人々が引き起こす猟奇的な事件もまた、後を絶ちません。抵抗できない幼い子どもや無関係な人を巻き込む拡大自殺と呼ばれる現象も増えてきました。評論家によればその人たちの多くは「自分がこうなったのは世の中が悪い」「死ぬ前に世の中に一矢報いてやりたい」と思っている、というのです。心の中に深く暗い闇がぽっかりと穴を開けているのです。

 ニュースを見るたび、私たちは、イエス様の大事な「さあ、起きた」という言葉を、若い世代に伝えそびれているのではないかと思ってしまいます。
 身をかがめて小さくなって、この世の終わり、と思い込むのでなく、そういった人々の心に向かって、イエス様が「若者よ、起きなさい」と言ってくださっている。そのことを教会は伝えていく役目を負っているのです。

 「もう泣かなくてもよい」と言い、「さあ、起きなさい」「起きてるでしょ」と私たちの信仰の目覚めを促してくださっているのです。そして、この世においても、永遠の命に向かっても、私たちを安心させてくださっているのです。





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