2019年6月3日月曜日

とりなしの祈り(日曜礼拝のお話・抜粋)

復活後第五主日礼拝(白) (2019年6月2日)
使徒言行録16:6-15 黙示録 22:7-13 ヨハネ17:20-26


 本日読みました福音書は「イエス様のとりなしの祈り」と言われているところです。

 私たちは日頃、自分自身の願いを叶えていただくために祈ります。また、自分に与えられた喜びや感謝を祈りとして口にします。それに対して、「とりなしの祈り」とは他者のことを神様に祈り求める祈りです。
 幼稚園でも、幼くて神様にどのように祈るべきかわからない子どもに代わって、あるいは、神様とまだ上手に関わりを持てない職員に代わって、そう言った人々と神様の間に入って、祈りを仲介するのが「とりなしの祈り」なのです。

 十字架にかかる前の夜、イエス様はまだ信仰の未熟な弟子たちに代わって、神様に祈りを捧げてくださいました。イエス様が十字架にかかるなど、想像もしていない弟子達と神様の間に入って「とりなし」の祈りを捧げてくださったのです。それが記録されているのが、本日の聖書箇所です。
 イエス様は、ご自分が天にお帰りになった後、弟子達がやがて御言葉に従って心を一つにし、豊かな教会を立て上げる日が来ることを喜びをもって神様に感謝し、しかもそれに伴うあらゆる苦労までもを見通して、弟子達に代わって祈ってくださったのでした。
 本当に、この時の弟子たちには全く見えていなかったものを、迫ってくる十字架の死を前にしながら、イエス様は神様に願い求めておられたのです。
 
 本日読んでいただいた使徒言行録には非常に活動的な伝道者・パウロが登場します。彼もまた、イエス様に招かれた弟子の一人であり、苦労を重ねながらも次々と教会を立て上げていきます。ところがパウロ達がある地方に行った時、聖霊によって伝道にストップがかかります。御言葉を語ることを聖霊から禁じられ、行こうとする道をイエス様の霊が塞いでしまうのです。
 ここには、「み言葉を語ることを聖霊から禁じられた(16章6節)」という表現と「イエスの霊がそれを許さなかった(同7節)」という独特の言い回しが出てきます。
 具体的には何があったのか、聖書には記録されていません。しかし情熱を持って宣教活動をしてきたパウロにとって、何らかのアクシデントによって先に進めないことは非常に苦しく、悩みを伴うものだったはずです。彼らは新しい導きに従って予定を大幅に変更し、行く予定のなかった土地へと足を踏み入れます。
 その土地とはマケドニア、今のギリシアに当たります。ギリシアといえば、今日もギリシャ正教が盛んな土地です。挫折したかに見えた宣教旅行が、大きな広がりを見せた最初の瞬間でした。パウロはここにきて、宣教の計画というものが自分の意思ではなく、一見挫折に見える中に、大きな神様の導きがあることを改めて知るのです。

 辛いとき、寂しいとき、計画が挫折したとき、世間に理解してもらえないとき。人生にたくさんある苦悩の時、何も知らない他人から「そら見たことか」と嘲笑われ、それでも自分が生きているのは意味がある、自分には神様らの使命があるのだ、と信じ抜くのは難しいものです。
 イエス様の導きが具体的な指示書のような形で届けば「ほら、私はこれに従って歩んでいるんだから余計なお節介はやめて放っておいてくれ」と言えるかもしれません。が、そのような形で神様のご計画が示されることは決してありません。
 パウロ達ユダヤ人にとって、ユダヤ教の枠を飛び出して異なる文化背景を持つ人々を群れに加えまとめ上げていくと言うのは、自分に染み付いたあらゆる常識を捨てることを意味していました。それは非常に困難な道と思われましたが、イエス様のとりなしの祈りによって彼らはそれをやり遂げていきます。

 私たちもまた、弟子達の伝道によって産み落とされたキリスト者達であり、イエス様のとりなしの祈りのうちにある者達です。
 一人では力の弱い者であることを知りつつ、イエス様の召し出しによって共に集っています。どうしていいか分からないこと、苦しみを背負ったときでも、イエス様が私たちのためにとりなしの祈りを捧げてくださっているのです。
 イエス様は私たちにこの教会を託してくださいました。日本の99%の人々からキリスト者は愚かな人種だと揶揄されたとしても、私たちはイエス様のとりなしの祈りに守られています。一日1日を、互いに支え合い、祈りあって、共に歩んで参りましょう。



5月30日は園児とサツマイモの苗の植え付けに行きました
秋には美味しいお芋ができますように

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