2019年7月26日金曜日

良きサマリア人(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(緑) (2019年7月21日)
申命記30:1-14 コロサイ 1:1-14 ルカ10:25-37

 本日の福音書はイエス様の有名なたとえ話ですが、そこにはユダヤ人の「祭司」と「レビ人」と共に、「サマリア人」と呼ばれる人物が出てきます。なぜサマリア人を登場させたのか、イエス様の意図は明確でした。

 紀元前900年代、イスラエルは南北に分かれていました。北がイスラエル王国、南はユダ王国でした。北イスラエル王国の首都がサマリア、南ユダ王国の首都が神殿のあるエルサレムでした。しかし紀元前721年、北王国はアッシリア帝国との戦争に負け、滅びてしまいます。アッシリアは政策として異民族をサマリアへ移住させます。こうしてサマリアで生き残っていたユダヤ人と他民族との結婚が進みました。この人々がサマリア人と呼ばれるようになります。
 北王国が滅亡した後、紀元前500年代の後半、南王国もバビロニアという大国に占領されます。神殿は壊され、王様を始めとして能力のある人々は皆、バビロニアへ連れて行かれました。これをバビロン捕囚といいます。
 バビロニアに強制移住させられたユダヤの人々は、神様への信仰が足りなかったからだと悔い改め、自分の子ども達にも律法と信仰の教育を行い、バビロニアの宗教に染まらないよう熱心に気を配りました。
 バビロン捕囚からおおよそ50年ののち、バビロニア帝国もペルシャによって滅ぼされます。これによってユダヤの人々4万人ほどがエルサレムに戻ります。そして律法を国の中心として再建することを誓い、神殿の立て直しを始めます。
 それを知ったサマリア人は神殿建設の手伝を申し入れます。しかしユダヤ人は、混血が進んだサマリア人達を軽蔑し、断ります。すると今度はサマリア人が神殿建設を妨害し始めたのです。こうして両者は同じルーツを持つにも関わらず、関係がすっかり悪化したのでした。
 
 イエス様から「善きサマリア人」の例え話を引き出したのは律法学者でした。彼は自分の問いかけに対してイエス様が「神を敬い、隣人を愛しなさい」と言われる事を予想していましたが、イエス様は彼に「律法にはなんて書いてあるか」と問い返されます。彼はスラスラと「心を尽くし、精神をつくし、力を尽くして あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と述べます。
 イエス様は、まず「正しい答えだ」と言われ、その後続けて「それを実行しなさい」と言われます。そこで彼は「わたしの隣人とは誰か、改めて示してほしい」と開き直ります。そこでイエス様が話されたのが「善きサマリア人」のたとえ話だったのです。
 イエス様はこの物語を通して、あなたの心に愛はあるのか、と問いかけられたのです。
 今瀕死状態になって倒れている人がいます。その人の傍らに駆け寄り、助けようとする心を持たなかった二人の人物は通り過ぎていきます。そこに登場したのがユダヤ人と因縁の深いサマリア人だった、とイエス様は話されます。

 イエス様が登場させたサマリア人はごく普通のサマリア人で、ユダヤ人との関係性に悩むと言った人物ではなかったでしょう。しかし彼の心に、倒れている人を憐れに思う心が湧き上がった、と言われるのです。彼は倒れている人が何人だろうとお構いなく、その心に従って行動した、それが愛だ、とイエス様は言われるのです。
 神の子イエス様は、善きサマリア人の話に込めて、私たちすべてに、誰が追いはぎに襲われた人の隣人に「なった」と思うか、と問いかけます。
 イエス様は条件に合致すれば隣人に該当する、と決めてかかるのではない、と教えられます。自分が愛を向ける対象が隣人としてすでに「ある」のではなく、助けと寄り添いを必要としている人との出会った時こそ、隣人に「なる」ように、とイエス様は教えているのです。
 
 イエス様ご自身がそれを実行され、神の愛を知らなかった私達の隣人になるために、命を投げ打ってくださいました。私達がそこまでイエス様に愛されていることを確信しているならば、すべての立場を超えて、神に示された誰かを愛し、隣人になることができるはずです。



倒れている人をみんなで助けている様子を
レゴで作って掲示板に入れてみました
思ったよりたくさんの方が見てくださるので
嬉しく思っています



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