待降節第三主日礼拝(紫) (2019年12月15日)
イザヤ7:10~14 ローマ1:1~7 マタイ1:18~23
ルカ福音書はマリアの立場から、マタイ福音書はヨセフの側からイエス様誕生の知らせが描かれています。
ヨセフは重要な役回りの割には、なんとなく影の薄い存在です。しかし実はクリスマスストーリーの中でヨセフの体験はショッキングで生々しく、男性として「人生最大のピンチ」に立たされたと言えるでしょう。
聖書にはヨセフについて「正しい人」と書かれていますので、信仰深く誠実な人間だったでしょう。そのヨセフの婚約者が妊娠し、父親は誰だかわからないのです。当時のイスラエルにおいて婚約と結婚はほとんど同一視されていましたから、マリアがヨセフ以外の男性と不貞を働いて妊娠したのだとすれば、単に婚約者への裏切りというだけではなく、石打ちによる死罪に値します。
ヨセフは大変なショックを受けつつもマリアの罪を暴き立て、彼女を死に追いやることはできません。とはいえ、他の男性の子を妊娠しているマリアと結婚することはできません。ヨセフはどれほどマリアのことが大切でも、律法違反を犯した女性を、黙って受け入れることはできなかったのです。
ヨセフがようやく思いついた解決方法は、マリアと密かに縁を切ることでした。公の場でなくても、二人の証人をたてて離縁状と手切れ金を渡せば婚約解消が可能でした。ヨセフは離縁を言いだしたのは自分の方であり、その賠償金も自分で払うと腹をくくります。
しかし、ヨセフの心の中にはなお迷いがあったでしょう。マリアを離縁することで律法違反を犯した女性と手を切ることはできます。しかし、離縁された後マリアとその子はどうなるのでしょうか。マリアは言い訳一つせず、成り行きに身を任せています。そんなマリアをヨセフは突き放そうとしているのです。それは本当に正しい事なのでしょうか。
律法を守るべきなのか、愛を選んで共に罪を犯すべきなのか。そのような苦悩をヨセフはひたすら押し殺し、ついに律法を守ることこそ、神の民の務めなのだと結論づけます。
ところがその夜、夢の中に主の使いが現れ、ヨセフに「恐れるな」と語りかけるのです。「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」。天使はここに至ってようやく全てを語り、マリアの身に起こったことが神のご計画であることを告げるのです。
ヨセフは夢から覚めて立ち上がり、この件についてあれこれ思い悩むことをスッパリと止めます。そしてマリアの身に起こったことも自分のこととして丸ごと受け止め、イエス様の育ての親となる道を選びます。こうしてヨセフの「人生最大のピンチ」は過ぎ去るのです。なんとも潔い生き方です。
「人生最大のピンチ」と思われるようなことはしばしば私たちを襲います。自分を襲っている辛さや悲みが、神様から与えられた事だと、すんなり受け止められる人は少ないと思います。なぜ?と思い巡らすばかりで、前に進めなくなることもあります。そんな時、夢でもいいから、「恐れるな」という天使の声が聞こえたらどんなに良いだろう、と思うのではないでしょうか。
しかし、実は私たちには聞こえているのです。イエス・キリストを礼拝する中で、私たちは、この礼拝においても、祝福の言葉に込められた「恐れるな」という神様の思いを共に聞いているのです。
神様は聖書を通して、私たちに「インマヌエル」という言葉を与えてくださいます。私たちの人生には科学者にも哲学者にも説明も理解できない事柄があるけれど、人の出す答えの限界を超えて、神様ご自身が共にいて、死も不幸も超えて、私たち一人一人を幸せにすることを約束してくださるのです。
最後に一つだけ。
こうして記された最初のクリスマス物語を通して私たちが覚えておきたいことは、「ヨセフなくしてマリアはない」ということです。
あの重い運命の下に置かれた、まだ年若いマリアはヨセフの支えなくしてどうやって耐えることができたでしょうか。ともに担ってくれるヨセフがいなければ、マリアは生きながえることができたでしょうか。
私たち一人一人に起こる人生最大のピンチを乗り越えるためには、神様が共にいてくださることの証として、共に神様を信じる信仰の仲間が必要なのです。隣人のために祈りつつ、神様の御心に従っていくのが、私たちの役目なのです。
先日、サローマ・テロさんとおっしゃる、フィンランド宣教師の歴史について研究をしている方が飯田教会に見えました。ページェントの練習をご覧になり、「フィンランドでは、こういった行事はもう見られなくなった」と喜んでおられました。 |
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