聖霊降臨後第13主日礼拝(緑) (2019年9月8日)
申命記29:1-8 フィレモン 1-25 ルカ14:25-33
イエス様はご自分に従いたいと願う人々に、弟子の条件を突きつけられます。それはぱっと見、決して厳しい条件とは思えないものでした。どんな時も「私を選ぶか」という、ただそれだけなのであります。が、この条件をきちんと満たそうとすると、どれくらい大変か、弟子となってみて始めてわかるものなのです。
キリスト教は誰か他人に強制されて信じるものではありませんし、「来るもの拒まず、去る者追わず」というところがあるのは事実です。しかしそこのところを自分に都合良く解釈し、すり替えてしまっているのかも知れないのです。自分の都合が良い時だけ信徒として振る舞い、都合が悪くなると信仰を引っ込めてしまう。イエス様はこういう曖昧な態度をこそ、憎めとおしゃったのです。
憎めという言葉は、とても強い言葉ですが、元々の言語と合わせて訳してみると、「より少なく愛する」という意味になります。これは「イエス様のもとに来たなら、他に気を取られて上の空になるな」というメッセージなのです。
「憎む」とは、人間関係や仕事関係を、全て信仰の為に否定し拒絶しろということではありません。仏教の始祖ゴータマ・シッダールタはコーサラ国という国の王子で、妻も子もありながら、全部捨て去って出家し、悟りの道に入ったそうですが、宗教に入るというと、なんとなくそういう心の状態が求められると思われがちです。
しかしイエス様は、むしろ、普段の生活を続けながら、愛着のある者たちとの間で苦悩しながらも、イエス様に従っていくという、悩みある信仰の歩みを良しとされる方なのです。
飯田教会は100年を超える歴史を持っています。長い歴史の中で、たくさんの洗礼者が与えられ、多くの人々がここに集いました。すでにこの世を去った方々はさておき、ご存命であるにも関わらず教会から遠ざかってしまった人々は、葛藤に負けて立ち去ってしまったという事なのでしょうか。そして今、残っている私たちは、たまたま運が良かった、ひどい葛藤に陥らずに済んだので続けて教会生活を送っているのでしょうか。
いいえ、そんなはずはありません。誰にも、信仰のピンチはあるのです。今、こうして共に集い、礼拝していても、日々、誘惑やピンチにさらされているのです。
では、なぜ信仰生活を続けることができるのかと言えば、イエス様の愛に応えようとする必死の思いがあるからです。この日、この時ばかりは、キリストの愛、神の愛に応えようとするあなた自身の愛が働いているからです。
愛されていることを知っている者にとって、礼拝の懺悔の時は、1週間のうちにイエス様に従いきれなかった一つ一つを思い出して「イエス様ごめんなさい」の思いを持つことです。そのために私たちはともにここに集うのであり、その上で、改めてイエス様の愛に従う誓いを立てるのです。
私たちは完全な愛を持ち合わせてはいません。生まれついて優しい性格の人は確かにいます。ですが、愛そうとするなら強い意志が必要なのです。私たちはその意志が時折萎えてしまうのです。自分がそういう存在であることを自覚した上で、そんな私でもイエス様が愛してくださることを信じて、気持ちを新たにして従っていくのです。
福音書には、あんなにもイエス様を尊敬し、弟子として従ってきた12弟子さえも、そして一番弟子のペトロさえも、イエス様が逮捕された時、「お前は弟子の一人なのか」と名もなき人に咎められ、心が揺り動かされて「イエスなど知らない」と偽りの誓いを立ててしまう様子がはっきりと記録されています。
私たち人間はその様な弱さを持っているのです。まず完全な優等生的を目指すのではなくて、自分のことを不器用で、弱いものだと認めつつ受け入れ、それでも神様の愛は変わらない、イエス様の愛は変わらないと信じ続けることが、イエス様の弟子、神様の弟子の条件なのです。
「イエス様を一番に愛する」ということは、言い換えれば誰よりもイエス様に甘えるという事です。それが心のそこからできるようになることを祈りましょう。一人一人を命をかけて愛してくださった尊いイエス様の犠牲を心に刻んで、キリストの弟子として生涯をかけて歩んで参りましょう。
今月28日(土)はこども園の運動会です
応援の気持ちを込めてレゴで玉入れの風景を作って
掲示板に飾りました
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