聖霊降臨後第12主日礼拝・聖餐式(緑) (2019年9月1日)
エレミヤ9:22-23 ヘブル 13:1-8 ルカ14:7-14
本日読みました福音書のタイトルには「教訓」という言葉が記されておりイエス様は「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」とお話になります。しかし、イエス様のおっしゃることはこの世を器用に渡って行くための処世術ではありません。そして、もちろん、教会の礼拝に来た時、前の方に座らない方が良い、などと指南したものでは、決してありません。
少し話が逸れますが、牧師になるために神学校に通っていた時、学校に教えに来ていた牧師先生が、君たちは前に座りなさい、前に座りなさいと何度も何度もおしゃるのです。教会では後ろに座る人が多くて、前に座ってもらうことに難儀する、と言われるのです。
日本人が奥ゆかしいからだ、という考え方もありますが、どうもそれだけではないようです。どんな人でも、状況が違えば前に座りたいこともあるはずです。
以前関わっていた保育園では、クリスマスページェントなどは、教会の礼拝堂で行っていましたが、なんとかして我が子の、あるいは我が孫の晴れ舞台をスマホなどで記録しようとする方のために、後ろの席は長椅子の上に立ち上がっても良いルールになっていたようです。
それなのに、同じ礼拝堂でありながら、日曜の礼拝となると状況が違います。説教中に牧師にうつらうつらしているところを見られたくないから、と説明する方もおられましたが、前に座ろうが後ろに座ろうが、牧師から見れば寝ている方は分かりますので、そういう心配はご無用といったところです。
どうして礼拝堂の席は後ろから埋まっていくのかなあ、やっぱり自分の責任なのかなあ、と神の代理人とまで言われているはずの牧師はちょっと悲しい気分になるわけです。
つまりは、目立たない場所にそっと座るからといって、必ずしもそれが謙虚の表れとは限らない、ということになります。
私たちが通常考える「謙虚な振る舞い」というのは、自分に対して自信がない時ついつい出てしまう行動であって、なるべく恥をかかなように目立たないようにしておこう、という処世術に過ぎないことが多いのです。
本日の福音書で、イエス様が教訓としてお教えになる「謙虚」というのとは、私たちが日常的に考える謙虚とは本質的に異なると頭を切り替えて、読み進めてまいりましょう。
イエス様は、ご自分が幸せな生涯をお送りになるためではなく、神様の存在を示し、神様の栄光をこの地に表わすために人としてお生まれになったのです。
しかし神様の栄光を現わすために、神様によって用意された道は、十字架への道であり、自分自身を無にするほど低くなる道でした。
今日の福音書の10節に面目(めんぼく)という言葉が出てきます。もともと面目という言葉は、『世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価』という意味で、人の目からどのように見られているかを表すときによく使います。
しかし、聖書のこの箇所で使われている「面目」とは「栄光」という言葉と同じ単語が使われています。「主の栄光」というと、漠然としていますが、「主の面目」と言い換えると、だいぶ捉えやすくなる気がします。「主に栄光を返す」というのは分かりにくくても、「主の面目を施した」と言い換えると、神様の評判を高めた、という意味になって、分かりやすいのではないでしょうか。
つまりイエス様は「神様は素晴らしい、偉大な方だ」と、より多くの人々に伝えるためにこの世に来られ、そのために十字架の上で命を投げ出されたのです。
イエス様は神様の偉大さを示すために、ご自分を小さくする道を選ばれました。偉大なのは神様であって、ご自分はその証をしているに過ぎないのだという考えをお持ちでしたから、次々と奇跡の業をなさいながらも、ご自身が教祖のように祭り上げられるのをお嫌いになりました。
それどころか、人々を救うために、自分は罪人になっても構わないという過酷な道を選ばれたのです。もし私たちが、周囲の人々から「あなたのしていることは悪いことだ」と指摘された時、それでも自分は十字架に掛かるほど、死刑になるほどの罪は犯していないと声をあげるでしょう。
しかし、イエス様はそうはなさいませんでした。自分が全く無実であるにも関わらず、そして全く罪が無かったにも関わらず、あえて十字架に掛かられたのです。
それは、私たち一人一人が、神様なんていない、と神様から注がれる愛に気づかず、それを否定し、身勝手な思いや振る舞いをしたがゆえでした。それは神様の目から見れば赦しがたい大きな罪となりました。その一つ一つの罪を償うために、私たちに代わってイエス様は十字架に掛かられたのです。私の罪、あなたの罪、全ての罪を償うために、一切の罪のない方が、とことん低くなり、へりくだって、もうボロ雑巾のようにクタクタになって死んで下さったのです。
イエス様はそうすることで、私たちがどんなひどい罪の状態の中にあっても、「私はあなたを理解できる」と手を差し伸べてくださるのです。それがイエス様のお役目だからです。私たちはこの方に感謝し、その手にすがって新しい命を生き始めることができるのです。
ただ、私たち、特に日曜日に礼拝を守る堅実な信徒であればあるほどに、自分のことを、本心から「私は罪人に過ぎません」とは言えないものです。そこそこ良い人であると自負し、それなりの良識ある人間であると信じているはずです。けれども、私は神様に逆らってはいないが、従ってもいない、そんな生き方をしていることが、ある時ふっと分かることがあります。変な言い方ですが、自分に死んでいないことが分かる時です。
洗礼とは、一度死に、主と共に蘇って新しい命を生きることのはずです。私たちは罪人に過ぎないものであり、土くれに過ぎないものだったのです。しかし、イエス様の呼びかけが、神様の招きがあり、キリスト教信仰の道が与えられました。新たな神様からの息を受けて悔い改めの心を知り、聖霊なる神の存在に気づかされ、日々導かれて生きているのです。この事実に胸が震える時、イエス様を通して自分を神様が招いてくださったのだと信じることができるのです。
どれほど遠回りした信仰生活でも、今主の近くにいることを覚えつつ、主イエスの教えに従いながら、恵みの時を覚えて歩んで参りましょう。
今日から外壁のブロック塀の取り壊しが始まりました
一ヶ月後にはフェンスとして新しく生まれ変わる予定です
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