2021年6月21日月曜日

嵐を静める(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第4主日礼拝(2021年6月20日)
コリントⅡ6章1-2節 マルコ福音書  4章35-41節

 本日の福音書の記録は最初の弟子がイエス様に招かれて学び始めてから1年が過ぎた頃です。イエス様は、12人の弟子たちに使徒と名付けられ、特別な教育を受け始めたところでした。


 この日、夕方になっても多くの人々がイエス様を取り巻き、一向に解散する気配がありませんでした。そこでイエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言い出されます。弟子たちはその意図を理解できず、言われるままに舟を漕ぎだします。

 使徒たちの中にはイエス様に招かれるまで漁師だった者たちが多く、舟を漕ぐのは得意でした。しかし日が暮れて真っ暗な中、いつも漁をしていた岸辺とは違うところから漕ぎ出すのですから、大変なことです。例えていうなら、どんなに車の運転に慣れた人でも、街灯のない初めての田舎道を走れと言われたら心細い気持ちになるでしょう。弟子たちはなんとも頼りない気持ちになったかもしれません。


 仮に天候が変わり、嵐になったら大変なことになるのを元漁師だった弟子たちは知っていました。それでも彼らは、イエス様が共にいるなら、何とかなるだろうという気持ちで出発したのです。

 彼らは何事もなく目的地に着くことを願いましたが、嫌な予感というのは当たるもので、たちまち激しい突風が起こり、舟は波をかぶってしまします。大きな舟ではありませんから、このまま水浸しになれば沈んでしまいます。彼らは必死で水を汲み出そうとします。


 ふと見ると、イエス様は舟の奥でぐっすり眠っておられます。弟子たちはすぐさま後悔します。「なぜ、あの時、イエス様危険です」と言わなかったのだろう。「なぜ、漁師の直感を信じなかったのだろう。」「イエス様、ガリラヤ湖のことは、私たちの方がよく知っています、となぜ言えなかったのか」「こんな風に嵐で死ぬのは神様の罰なのだろうか」。

 自分たちではもはやどうすることもできない中で、弟子たちのイエス様に対する尊敬の念は消え、怒りさえ湧き上がってきました。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書にも記されていますが、比べてみますとマルコ福音書の弟子たちが、一番不遜な態度をとっています。


 危機的な状況の時、信仰が本気かどうかは、はっきりと表れます。「死にそうです。お助けください」は一番シンプルな祈りの形です。しかし、この時、マルコ福音書に記された言葉は、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という、イエス様をなじる言葉でした。彼らの気持ちを考えてみますと、共感できる気がします。

 信仰に生きる者にとって、一番恐怖を感じるのは、神の沈黙です。神が祈りに応えてくださらない。私のことなどどうでもいいと思っておられるのではないか。そう感じる時、最も信仰がぐらつくのです。


 この舟旅はイエス様のご命令で始まったことでした。自分たちは賛同したにせよ、このまま、みんな溺れ死んでしまうなら、それはイエス様の判断ミスではないか。こんな目にあわされて神様が憐れみ深い父などとよくもおっしゃったものだ。まだ舟は沈まず、誰も死んでいないのに、彼らはイエス様に恨みごとをぶつけるほどに追い込まれたのです ここではっきり分かることは、のちに弟子たちがどれほど偉大な伝道者になったとしても、最初からイエス様を完全に信じていたわけではなかった、ということです。

 しかしイエス様は弱音を吐き、不遜な言葉をぶつけてくる弟子たちを見捨てるようことはなさいませんでした。おもむろに起き上がると、弟子たちを恐怖に陥れている風に向かって、また湖の波に向かって、「黙れ、静まれ」とおっしゃいます。すると風は止み、すっかり凪になった、と福音書は伝えます。

 そして、弟子たちを怖がらせるものがすっかり過ぎ去ってから、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃいました。


 弟子たちがイエス様の前で犯した失態は、いつの時代にも繰り返される出来事です。どれほど信仰的と言われる人物であろうとも、想像を超えた危機に陥った時、神様に見放されたかと怯え、苦しみます。けれども、イエス様は一度弟子として招いたものたちを決して見放されません。私たちの目からは眠っておられるように見えても、その助けは決して遅すぎることはないのです。


 私たちはキリスト者の少ない日本という国で生きています。イエス様を信じていない人からキリスト教批判をされるのは日常茶飯事です。そんな時、心の中はざわつき悲しい思いをしますが、舟が転覆するほどの大嵐にはなりません。「あの人はキリストの愛を知らないのだから」と自分に言い聞かせることができるからです。

 しかし、もし教会の中でキリスト者同士がいがみ合ったりイエス様への不信を口にすれば嵐は心の中で何倍にも増幅されます。互いに「クリスチャンのくせに」とののしりあえば、同じ目的に向かって進んでいるはずの教会という舟は嵐の中で沈み始めるでしょう。


 そんな時は躊躇することなく「主よ、船が沈みそうです。お助けください」と祈ることです。「私たちの教会が壊れてもいいのですか」という、喧嘩腰の態度ではなく、謙虚にイエス様を主として祈るのです。

 今の時代、イエス様は聖書を通して私たちがいつでもどこででも御言葉を聞くことができるようにしてくださいました。不器用でも、神様の御心を行っていこうとするものたちには聖霊なる神の力と導きがあたえられます。



7月3日の土曜学校の工作は
「万華鏡」です
アクリスビーズを入れて涼しげに仕上げる予定です




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