2020年3月30日月曜日

ラザロの命(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2020年3月29日)
ローマの信徒への手紙8:6-11 ヨハネによる福音書11:17-27


 毎日、コロナウイルスによる死者の数が報道されています。私たちは今、命が失われることに麻痺しそうな社会状況の中にいます。こんな時だからこそ、命について、今一度信仰的に捉え直してまいりましょう。


 本日の聖書箇所に登場するラザロは、イエス様と強い愛で結ばれていました。ここでは関係性を表す「愛」にギリシャ語のアガペーが用いられています。イエス様は全てを与え、全てを失っても惜しくないほどに彼らを愛しておられたのです。
 ところがそれほど深い絆があったにも関わらず、近くにおられたはずのイエス様はラザロが危篤状態になった時、駆けつける事はなさいませんでした。
 弟子たちを伴って行動を起こされた時、ラザロはとうに墓に葬られていました。ユダヤ社会では、葬儀は1週間も続いたと言われ、親族や友人あげて非常に熱心に行われたそうです。集まった人々の中には余計なことを言う人々も必ず混じっているものです。「あんなに親しかったイエス様は、あんたらが人をやっても来なかったではないか。葬式にも来なかったし、死んで4日もたっているのに、顔も見せない、薄情ではないか」そのような会話が遺族をさらに傷つけたことは容易に想像できます。

 そんな時、イエス様がこちらに向かっていると聞いたマルタは、村の入り口まで迎えに行きます。気丈な振る舞いでしたが、その口から出たのは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という嘆きの言葉でした。
 そんな彼女にイエス様が「あなたの兄弟は復活する」と言われますと、とマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。
このマルタの言葉の真意は私たちにも理解できると思います。「私は神様を信じ、そこそこ善人として生活してきた。死んでも地獄に落ちるようなことはしていない。兄弟のラザロも同様だから、死んだら天国で会えると思う」そんな感じの、どことなくあやふやな死生観です。
 イエス様はそれを見透かしたかのように、こうおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」
 イエス様は「信仰のあるものは死によって体が奪われても、滅びることはない」と宣言されたのです

 「このことを信じるか」は、重い問いかけです。しかしマルタは「はい、主よ」と答えます。そして続けて「あなたは神の子、メシアです」と答えるのです。これはマルタの信仰があやふやなところから大きく前進した瞬間でした。

 マルタは最初、ラザロを「見殺しにした」イエス様に

怒りを覚えていたかも知れません。けれども、「あなたの兄弟は復活する」という言葉を聞いて、何らかの形でイエス様は救ってくださるだろう、と自分の理解できる範囲で必死で納得しようとしました。

 そんな彼女に、イエス様はご自分こそが復活であり、命であるとおっしゃるのです。遠い未来でもなく、過ぎ去った過去でもなく、今、私は復活であり、命であるとおしゃったのです。マルタはその力強い言葉に打たれ、圧倒されます。そして自分がどれほどイエス様に大切にされ、愛されているかに気づくのです。

 マルタがはじめに口にした、「あなたがここにいらっしゃたら死ななかったでしょうに」というのは「イエス様、ラザロに対してあなたが奇跡を起こしてくださったら、あなたをもっと信じることができたでしょうし、もっと愛することもできたでしょう」という意味で、奇跡を見てから信じるという態度です。
 しかし、イエス様は奇跡を見せて人を驚かせて信仰に導くよりも、信仰を持った人に奇跡をなさることを喜ばれるのです。どっちも結果的には変わらないと言えば、変わらないかも知れませんが、イエス様が私たち一人一人を愛して下さっていると信じるなら、その奇跡にも愛が深まって伝わるものです。

 マルタはここでイエス様の掛け値のない愛を受け止めたからこそ、まだラザロの命の復活を見ないうちから「信じます」と言葉にすることができました。
 イエス様が私たちに求めておられるのは愛のある信仰なのです。それはイエス様御自身が私たちを愛しておられるからです。
 イエス様は私たちに永遠の命を持って共にいてほしいと願われます。私たちに語りかけ、ついてきなさい、と言われます。そんなイエス様に対して、「いえいえ、まず奇跡を見せてください、そうすればあなたを愛し、ついていきます」というのは「愛してる証拠を見せてくれたら私もあなたを愛してあげよう」という、ただの駆け引きにすぎません。

 私たちにとって「信じる」ということは大変なことです。親しい人に裏切られた経験の無い人はいないでしょう。それが辛い思い出であればあるだけ、神の子イエス様であっても、簡単に「信じます」と言うことはできないかもしれません。
 それでも、私たちがイエス様を信じられるのは、イエス様が私たちの心に直接語りかけてくださり、愛を込めて「信じなさい」と導いてくださるからです。

 現在、私たちの社会は、0.3ミクロンという小さなウィルスに翻弄され、パニック状態になっています。しかし、こういう時こそ、信仰が必要なのです。人間の力を過信し、神様よりもこの世の多くに頼りすぎていたこと。つまり神様を愛してこなかったこと、愛することが分からなかったことを悔い改める必要があります。
 そして何があろうとも、自分が神様に愛されている存在であることを信じて、自暴自棄にならないよう落ち着いて、思いやりを持って行動していくことが求められています。
 ラザロの命がイエス・キリストの元にあるように、私たち、一人一人の命も復活も、イエス様の御手の中にあるのです。信じましょう。信じてまいりましょう。



教会の駐車場脇の植え込みで
「ヒメリュウキンカ」や「ハナニラ」が咲いています
植えっぱなしのまま
冬を乗り越えて、忘れずに咲いてくれました


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