四旬節第一主日礼拝・聖餐式(2020年3月1日)
創世記3:1-7 ローマ 5:12-19 マタイによる福音書4:1-11
ルーテル教会では、先週の灰の水曜日から始まった40日、イースターまでの日曜日を除いた40日間を受難節(レント)と呼びます。この期間、自分のように罪ある者がいつの日か天国に招いていただけるのは、イエス様のお苦しみあってのことだ、と強く心に刻むのです。
そのような季節の始まりに、私たちは「荒れ野の誘惑」の説教を共に聞くのです。
イエス様ほどの方が悪魔の誘惑に引っかかるはずはありません。何のためにこのようなことが書かれているのかといえば、言うまでもなく、私たちのためです。
神様が作られた最初の人間、アダムとエバは蛇の誘惑に負け、神様と交わしたたった一つの契約「あの木の実だけは食べてはならない」と言う約束を破棄してしまいます。契約破棄の罰はエデンの園から追い出されることでした。
しかし神様は人間を放っては置けず、イエス様によって、再契約をし、もう一度楽園に招こうとしてくださいます。それが神様がイエス様をこの世に遣わされた大きな目的です。
この日、イエス様が荒野に導かれたのは、わざわざ悪魔から誘惑を受けるためだったと聖書にはと書かれています。勝利できることが分かっていても、40日間断食をしてお腹ぺこぺこのところに悪魔がやってきてあれこれ話しかけられるのは、イエス様といえども楽しい事ではありません。
悪魔はまず「腹ペコなら石をパンに変えたらどうだ」とそそのかします。するとイエス様は申命記から引用して「人はパンだけで生きるものでない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と返されます。
それを聞いた悪魔はすぐにイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と誘惑します。これが二つ目の誘惑です。
悪魔は「あなたの信仰は立派だ、見上げたもんだ、それだけ信仰があるなら、神様が守ってくれるだろう、その証拠をみせてもらおうじゃないか」と言うわけです。
人間である私たちは、試練をくぐり抜けた時、自分の信仰が成長したように思えます。そこに悪魔はつけこんでくるのです。そこにあるほんの少しの自惚れを悪魔は突いてくるのです。私たちは、自分の信仰を証ししようとするとき、ただ祈るだけ、というのは地味に感じられ、神様が自分の言うことを何でも聞いてくれる、と他者に対して演出したくなる誘惑に陥るのです。
しかしそこはイエス様です。やはり申命記を用いて「あなたの神である主を試してはならない」と答えられたのです。これは、派手なことをして試さなくても、神様はいつも私とともにいてくださることは分かっている、という強い確信です。
三つ目の誘惑は「俺を伏し拝めば、世の中の全てを与えよう」。
「悪魔に魂を売る」という言葉がありますが、確かに信仰そっちのけで血も涙もない商売をすれば、この世の富を得ることができるかもしれません。しかし、この世の命が尽きるとき、そのような生き方をした者はどうなるのでしょうか。
悪魔がこの世の富や栄誉を与える権限があったとしても、イエス様から頂く平安と、天国への希望には変えられません。悪魔から求めたりしないで、神から、イエス様から与えられることを望むのです。
今、私たちは大きな試練の中にいます。疫病の流行のせいで、各地で混乱が起き、経済も不安定になっています。礼拝も、幼稚園も、国や役所のお達しに振り回されている感があります。けれども、イエス様はこういうことは、世に起こることになっていると聖書を通して教えられています。むしろ、こういう時こそ、み言葉に聞いて心を鎮め、イエス様に聞き、何が最善であるか祈り、従っていくことが、私たちの務めなのです。そして、そこに平安があるのです。
私たちには、荒野の誘惑に勝利されたキリストが共にいてくださいます。私たちがたとえ敗北を感じるような時も、どんな時も、どこにいようとも、神ご自身を礼拝すること忘れないで、この出来事を大切な教訓として歩んで参りましょう。
こんな時期ですが、教会員有志と車を乗り合わせ
セツブンソウと福寿草の自生地に行ってきました
現地の福寿草祭りは中止となり
人も少なくてむしろゆっくり
鑑賞することができましたが
準備してきた地元の方は、さぞ無念でしょう
人間の右往左往に関係なく
花たちは静かに咲いていました
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