マタイによる福音書第5章13節-16節、2017年2月5日(日)、顕現節第5主日礼拝、(典礼色―緑―)、イザヤ書第58章1節-10節、コリントの信徒への手紙一第2章1節-5節、讃美唱112(詩編第112編1節-10節)
「あなた方の光を輝かしなさい」(マタイによる福音書第5章13節~16節)
私どもは、顕現節の歩みをしております。先週は、暗きにすむガリラヤの民に大いなる光が昇ったとして、ガリラヤ近辺のあるゆる群衆が、主イエスの下に集まり、従ってきた、そして主は、ガリラヤの海で、二組の兄弟、4人の漁師を、人間をとる漁師として召し出した出来事を読みました。
今朝は、その主イエスが、従ってくる弟子たちに、あるいはまた、聞き従おうとする群衆にも向かって、語られた山上の説教の一節が与えられています。
この記事は、いわゆる8至福とも9至福とも言われている中の最後の至福に続いている主のお言葉であります。
あなた方が、私のために偽りの告発のゆえに、悪口を言われ、迫害されるとき、あなた方は幸いである。その時には、あなた方は大いに喜べ、天においてはあなた方に大いなる報いがある。あなた方の先の預言者たちも皆、同じように迫害されたのであるとあります。
主イエスの弟子たちは、そしてまた、この福音書を聞いているマタイの教会の人たちは、その当時激しい迫害を受け、試みを受け、戸惑いの中にあったに違いありません。
しかし、そのような主に従う弟子たちに向かって、主は高らかに宣言されるのです。あなた方は、地の塩である。塩がその塩味を失えば、どうやってその塩気を取り戻すことができようか。それはもはや、外に投げ捨てられ、人々によって踏みにじられる以外には用をなさないと。
私どもが、地の塩として、この地をながらえさえ、保存する者となるように、主は、塩としての役目を見失ってはならないと断言されます。また、塩は、料理の塩味として、調味料として、風味を効かせ、おいしい料理を作り上げます。
自分は、その中に溶け込んで、自分自身はなくして、良い結果をもたらします。知恵ある言葉を語り、社会をよりよくする。そのような働きを、主は私たちになすように求めておられます。迫害や困難に打ち負かされないで、地を塩味づけていくことをし続けるようにと励ましておられます。
さらに、主は言われます。あなた方は、世の光である。山の上にある町は隠される事ができない。ランプを点して、枡の下に置く者はいない。人はそれを燭台の上において、家の中全体を照らすようにするのであると。
私どもは、自分はとても、地の塩や、世の光とはいえない、それは、キリスト者の理想であって、自分はとてもとてもそのように高貴な者ではないと謙遜しがちであります。しかし、主イエスは、私に従うあなた方はそのままで、今のままで、既に世の光、地の塩であると明言なさいます。そうなるであろうとか、そうなれと言われるのではなく、私の光を受けたあなた方は、世の光そのものであると言われるのです。
日本の明治以来のキリスト者たちの中にも、そのような世の光として歩んだ多くの先人を、私たちは知っています。たとえば、北海道家庭学校を開いた留岡幸助のように、罪を犯した青少年を社会に矯正して復帰させることに全生涯を傾けたキリスト者等を私たちは思い出します。
あなたたちは、世の光であり、地の塩である、という言葉は、しかし、一部の指導者や、説教者、牧師等に限られるものでしょうか。決してそうではありません。信徒も、一人一人がみなそうなのであります。自分はとても世の光などと理想めいたことは言えないと言って、聞き逃すことはできない、一人一人に語りかけられている招きの言葉なのであります。散髪屋さんは、散髪屋さんの仕事の中で、主婦は主婦の働きの中でそれが求められています。
しかし、確かに、説教を語る牧師は、枡のなかにローソクを点すような者であってはならないでしょう。暗闇の中に遠くからでも、その光が燦然と輝いて見える丘の上の町のように、あるいは少なくとも灯台の光のように人々を導く働きが、さらに求められることでしょう。今、たとえば、トランプさんが大統領となり、日本では、安倍首相が伊勢神宮に各国首脳を招き入れたり、右傾化している。そのような中で、憲法の政治と宗教の分離の原則をいかにすれば保持していくことができるのか。象徴天皇制の原則をどうやって守っていくことができるのか、そのようなことに対して、正しい識見を示していくなどは、教会を運営する者として、より深く牧師には問われてくることでしょう。
しかし、根本的には、一人一人の生活が問われています。主は、そのようにして、あなた方の光を人々の前で輝かしなさい。それは、あなた方の立派な行いをみて、人々が、天におられるあなた方の父をあがめるようになるためであると結論されています。私どもは特にルーテル教会に属する者として、信仰のみによって、義とされると耳にたこができるほど聞かされています。それはその通りです。恵みのみによって、私どもは救われています。
しかし、それは私どもの生活を見て、それを通して人々は、それが、天の父から来ていることを信ずることができるのです。それを目立って、すべての人たちが知ることができるように、新しい生を通して輝かしなさいと、主はお命じになられます。隠して自分たちだけの生活をするものではないのです。神の国は、主イエスの説教と共に、既に到来しているのであり、それを語り伝え、証しするようにと、すべての弟子たちは招かれているのであります。アーメン。
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