聖霊降臨後第16主日礼拝(2021年9月12日)
詩編116編1-9節 マルコによる福音書8章31-38節
新約聖書はもともとギリシャ語で書かれていますが「十字架」にはどんな単語が使われているかご存知でしょうか?特別な言葉が使われていると思われるでしょうが、元の言葉は「立たされる」というごく普通の言葉が元になっています。
この「立つ」に関して有名な言葉をご紹介しますと、マルチン・ルターが宗教改革の途上で、自身の意見を曲げるか曲げないかの選択を迫られた時、「我、ここに立つ」という有名な言葉を口にしています。これは「我は十字架につく」というニュアンスが込められています。
さて、イエス様は、この世界で人々が悪に惹かれたり罪を犯したりすることの背後には悪霊の存在があることを知っておられました。弟子たちが罪や悪に打ち勝つには、悪霊を追い出す能力を持つ必要があることをわかっておられたので、彼らがが悪霊に打ち勝てるよう、力をお与えになりました。彼らがイエス様を信じている限り、決して悪霊に負けることはなかったのです。
しかし弟子達はせっかく力を与えられていながら、イエス様が望むほどにはなかなか成長しませんでした。それどころか、彼らはイエス様の素晴らしいお力を見ているうちに、「自分のあのように人々に仕えていきたい」と思うよりも、自分の願いを叶えていただきたい、と考えるようになります。
そこでイエス様は十字架にかかるまでの残された時間に、彼らをさらに教育することを試みられました。ガリラヤ湖畔からさらに40キロほど北のヘルモン山の麓、フィリポ・カイサリアに、弟子たちと共に赴かれたのです。
フィリポ・カイサリアは、ローマ皇帝のために整備された風光明媚な保養地でした。しかしここは旧約時代、異教の神バアルが祀られていた都市でした。熱心なユダヤ教徒にとっては異教の土地、汚らわしい土地でもあったのです。
イエス様はそう言ったことをご承知の上で、弟子たちとやってこられたのです。そして彼らにまず「ここの土地の人々は私のことをなんと言っているか」と問いかけます。弟子達は皇帝のお膝元であることを意識してつい言葉を選び、「人々は洗礼者ヨハネの継承者とか預言者の生まれ変わりとか噂しています」と告げます。
そこで次にイエス様は「では、あなた方は私を誰だと思っているか」と尋ねます。ほとんどの弟子たちは一瞬口ごもってお互い顔を見合わせたことでしょう。ところがペトロは、全くストレートに、命の危機も顧みずに「あなたはメシアです」と言い切ったのです。
イエス様は自身が神の御子であることを、弟子たちに言葉にしてもらいたかったのです。「あなたは、メシアです。」これは一番短い信仰告白です。「あなたこそ、救い主です」という言葉を、ペトロは他の弟子たちの思いを代表して力強く言い放ったのです。
その言葉をイエス様は喜ばれ、弟子教育の次の重要な段階に入ろうと考えられました。それが本日読みました福音書の箇所です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日の後に復活することになっている」とはっきり話されました。マルコ福音書ではイエス様はご自分の死と復活について3回予告されていますが、これはその第一回目でした。
イエス様の言葉を聞いたペトロはショックを受けます。イエス様にはユダヤの国を改革していただいて、ローマを追い出して、再び自由の民になりたいと考えているし、イエス様がリーダーになってくださるなら命を捨てる覚悟もしているのに、なぜ戦う前から負けるようなことを言われるのか。イエス様がいてこその自分たちなのに、と思ったのでしょう。
そこでペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めた、と書かれています。これは想像ですが、ペトロは「縁起でもないことを言わないでください」とか「そんなに弱気になってどうするんですか」などと言ったのではないでしょうか。
それに対してイエス様は「サタン、引き下がれ」と、とんでもない強い言葉でペトロを叱りました。続けて「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。その上で、私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とおっしゃいました。
ここでイエス様が弟子達に「十字架を背負い」と言われたのは、遠からずご自分が十字架にかかる時に一緒に来て一緒にかかりなさい、という意味ではありません。弟子となった人々一人一人が神様のご命令に従って、誰か他の人のために苦労することを選びなさい、という意味です。
あなたたちは神様に従った結果として、苦労の多い場に導き出され、立たされることになる。そこで全力で神様のご命令に従っても世の中の人から賞賛を受けることはないかも知れないし、人々からの不満や言いがかり、罵声さえも受けることもあるだろう。しかし、あなたには、あなたから与えられた神様からの役目がある。それがあなたの十字架であり、あなたが背負うべき十字架なのだ。あなたの労苦は神様が評価してくださる。
イエス様はそのような思いをこめて「十字架を負いなさい」と言われたのでした。
私たちはこれからも神様が必要とされる働きをして行くことを心に刻み、一つ一つの事柄を丁寧に行なって参りましょう。この世の賞賛や誉に心を奪われることなく、複雑な現代の状況と信仰による判断を照らし合わさながら、ひとたび「我が十字架」を負ったならば、決して世間に振り回されることなく、イエス様を通して示された神様の御心を証しながら共に歩んで参りましょう。
「りんご並木」もすっかり秋の色です
この並木は近くの中学の生徒たちによって 大切に整備されています 大振りのマリーゴールドも 美しい景観作りに一役買っています |
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