待降節第3主日礼拝(紫)(2022年12月11日)短縮
イザヤ書35章1-10節(1116)マタイ福音書11章2-11節(3)
本日の福音書には、先週に引き続いて洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネはヨルダン側の岸辺でイエス様と出会い、この方こそ「救い主」であると確信します。
ヨハネは神様に忠実に生きるために俗世を離れ、荒野で禁欲的な生活を送ってきました。誰とも馴れ合わず、相手が誰であろうが神様の御心から外れていると思われる人には悔い改めを迫り、厳しい言葉を語りました。その結果として、時の領主ヘロデを批判した罪で捉えられ牢に繋がれました。
ヨハネを新しい時代のリーダーだと考えていた人々は大いに失望しますが、その後を受けるようにイエス様が宣教を開始されます。そのお言葉と行動には素晴らしい力が宿っていましたから人々は喜んでイエス様の教えを聞こうと集まりました。
ただ、イエス様の生活はヨハネの禁欲的な態度とは対照的でした。イエス様は、相手が罪人と呼ばれる徴税人であろうと招かれれば一切気にせず招待に応じ、共に食卓を囲んで楽しく飲み食いなさいました。ヨハネの厳しい教えに従おうと考えていた人々には奇妙に映ったことでしょう。民衆は洗礼者ヨハネの教えに留まるべきか、それともイエス様の教えに従っていくべきか、大いに戸惑ったのです。
民衆にとっては、ヨハネもイエス様も、イスラエルの社会を大きく変革させる指導者でした。この二人のどちらかの行動一つで国が変わる、と考えました。
イスラエルは古くから宗教指導者が政治家も兼ねる宗教国家でしたが、イエス様の時代、そういった人々の多くは堕落したり支配国であるローマに擦り寄ったりしていました。その有り様を内心嘆いていた人々は、ヨハネかイエス様によってイスラエルをあるべき姿に戻してもらえるかもしれない、と考えました。
イスラエルは紀元前1000年前のダビデの時代が絶頂期でした。ユダヤ人なら誰でも、その時代への強い憧れがあったのです。人々はどちらかがリーダーとなってローマを追い払ってくれれば、ダビデ王の時代のような神様中心の強い独立国に戻れるに違いない、と期待を抱いたのです。イスラエルの人々にとって宗教リーダーとはそこまで大きな役割を負う存在だったのです。
私たち日本に住む人間には想像できないほどの使命の違いですが、宗教家にしろ政治家にしろ、どんなに良き指導者が現れたとしても、その人たちに責任を押し付けて自分はしんどい役目を負うことをせず、ただ利益を与えられることだけを待ち望むなら、国は一時的に良くなったとしても、あっという間に元の混沌とした状態に戻ってしまうでしょう。
イエスはそのような人間のそういった良くない性質を十分ご存知でした。その上で、そのような人々を厳しく断罪したヨハネとは異なり、むしろそういった底辺の人々のところにご自分から出向かれました。そのため、エリート的な人々や真面目が取り柄のような人々から誤解され悪い噂を流されましたが、少しも気になさいませんでした。
ヨハネの言うように潔癖には生きられない、と諦めていた人たちにとって、イエス様は親しみやすく、それでいて大切な教えを教えてくれる素晴らしい教師となりました。その上、癒しの奇跡を行われたので、民衆はイエス様にどんどん惹きつけられていきました。
ヨハネは、牢に繋がれていましたが、看守や自分の弟子からイエス様の噂を聞いたのでしょう。イエス様のところに人を遣わして、「来るべき方」つまり「救い主」はあなたなのでしょうか、と問いかけたのです。
これは不思議な問いかけです。先にお話ししたように、ヨハネはヨルダン側の岸辺でイエス様がヨハネから洗礼を受けることを望んだ時「私こそあなたから洗礼を受けるべきだ」と辞退しようとしたほどです。ヨハネはこの時イエス様がメシアであることを確信していたはずです。
ヨハネが本当に疑ったのか、念押しだったのかはよくわかりません。ヨハネに問いかけに関して、イエス様のお答えは今日の福音書に記されているように少し遠回しだったからです。
イエス様は要約すれば「私のしていることを見れば、メシアかどうかわかるはずだ」とお答えになってヨハネの弟子たちを帰されます。
その後、ご自分の話を聞きに集まっていた他の人々を前に、ヨハネの働きを非常に高く評価されました。ただしそのお言葉の中に感じられるのは、まことの救い主であるご自分が来られたのだから、ヨハネの果たすべき役割は終わった、ということでした。
洗礼者ヨハネは、自分勝手な生き方をしてきた者でも、その罪に気づくなら神様は裁かないで赦してくださると教え、迷いつつも自分の元にやってきた人々に悔い改めの洗礼を授けました。そうすることで本来なら神の国に入れる資格がないと思い込んでいた者たちにも天国の門が開いた、まさに天国が開国したのです。
それでも、世の中には悔い改めようとしない人々は大勢いました。「どうせ自分なんて」と考えている人々です。しかしイエス様は天国の間口が限りなく広く、天国がどれほど豊かであることを示すために、民衆の中に入りこまれたのです。何度も言うようですが、イエス様はこの世の罪人と語らい、共に食事をし、大酒飲みの大ぐらいと揶揄されても、この世で生きづらさを抱えながら開き直っている人々と親しく交流し、天国が彼らの生きる希望、生きる目的になるよう、全力で関わられたのです。ここに、愛の姿勢があるのです。
私たちは、イエス様が示してくださった天国に至る広き門を知っています。そのイエ様の誕生を喜び、告げ広める者として招かれているのです。クリスマスを前にしたこの季節、私たちは改めてイエス様の生き方に学んで参りましょう。
飯田教会には立派なネイティビティはありませんが 小さくて質素なこのセット、 ファーストクリスマスの情景のようで 結構気に入っています 今年も礼拝堂の正面で 静かにクリスマスの訪れを知らせてくれています |
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