待降節第2主日礼拝(紫)(2022年12月4日)
イザヤ書11章1-5節(1078) マタイ福音書 3章1-6節(3)
これからの1年、私たちはマタイによる福音書を通して御言葉を聞いて参ります。マタイによる福音書の特徴は、著者であるマタイが徴税人出身だった、という経歴のユニークさにあります。彼は大金を叩いてローマの犬となり、税金を集める立場を獲得しました。同じユダヤ人から裏切り者、罪人と罵られても金儲けをやめられなかったのに、イエス様に招かれた時、富やローマの後ろ盾をあっさり捨て、弟子となって従う道を選んだのです。
そのマタイが「キリストの言葉と行いはこの世の全ての民族の知恵や知識に優る」と確信して書き上げたイエス様の伝記がこの福音書なのです。ですからマタイはイエス様誕生の際、異教徒である占星術の学者たちが東の国から訪問し、ひれ伏して礼拝した、とあえて記すのです。
イスラエルは長い歴史の中でたびたび戦いに敗れますが、神様の愛の前に悔い改め、奇跡的な復活を遂げます。それはひとえに神様の側の哀れみによるのですが、そこを過信してしまうのが人の悲しさです。
イエス様がお生まれになった当時、ユダヤは宗教と政治が一体となった宗教国家でした。主流派は神殿を司っていたサドカイ派と、聖書と律法の教えを重んじるファリサイ派でした。しかし彼らは神様からご覧になれば見当違いの信仰生活を送っていました。
サドカイ派は神殿と儀式さえ守っていれば神様が守ってくれると教えていましたし、ファリサイ派は律法を守ることを何より重視しました。この二つのグループはライバル関係で、決して仲が良いとは言えませんでしたが、熱心に信仰生活を送っている自分たちを神様が滅ぼすわけがない、という考え方は共通していました。
彼らが謙虚になってじっくり旧約聖書を読んだなら、自分たちの態度が神様を悲しませていることに気づいたかもしれません。しかし民衆を指導する立場の彼らは、言うなればふんぞり返って人々から尊敬されることを好んでいましたから、謙虚になることはありませんでした。
しかし彼らがいくら「我が国は大丈夫だ」と言っても、庶民は盲目的にそれを信じることはできませんでしたから、従来の指導に嫌気がさし、ひたすら神様の教えに従った生活がしたいと望んだ人々もいました。荒野で集団生活し、霊性を高め、時に断食しつつ、「神殿に過剰に頼らなくても神様に仕えることはできる」と信じて神の御心に生きようとしました。その人々ははエッセネ派と呼ばれました。
洗礼者ヨハネもエッセネ派の一員として俗世から離れていましたが、ある時神様の召しを受けて、荒野から「悔い改めよ、天の国は近づいた」と叫び始めます。彼は神様の御言葉をいただいて、それが民衆にどれほど耳の痛いことであっても伝える役目をおったのです。
ヨハネの厳しい声はイスラエル全土のユダヤ教徒の人々の耳に届きます。これは社会に大きな波紋を投げかけました。
ヨハネの「悔い改めよ」の一言は「自分はこれでいいのか?」と悩んでいた多くの人々の心に突き刺さりました。ユダヤ民族は古代から非常に聡明な民族だと言われていました。幼い頃から聖書に基づいた教育を受け、読み書きもできました。そんな彼らでしたから、ヨハネの言葉を聞いた時、自分が神様に向き合わず、表面的な信仰生活に終始していたことに気づき、続々とヨハネの元に来て自分の行いを悔い改め、その証としての洗礼を受けたのです。
私たちは、イエス様は何でも赦してくださる、となんとなく甘く見て、悔い改めの祈りや行動を改めることを、あまり大切に捉えていないこともあります。しかし、ヨハネの語る「悔い改めよ」とは、これから天国に勝るとも劣らない場所を地上に創っていくから、あなたがたはそれに備えなさい、というものなのです。そのためにまず罪を告白し、洗礼を受け、天国の実現のために真剣に信仰に歩みなさい、という招きだったのです。「神の国」というのは観念的なものではなく、神様がご自分を信じる者たち一人一人を用いて、作り出してくださるものなのです。
洗礼者ヨハネは「自分がその神の国を作り出す存在だ」とは決して言わず、後から来られる方がその国を作るための準備をしているに過ぎない、と語りました。後から来られる方、とは言うまでもなくイエス様のことです。
イエス様は、神の国、遥か高みに鎮座して「私を礼拝しろ」と命令する神ではありません。神であるにもかかわらず人として生まれ、かといって特に目立つお姿でもなく、ただ人としてのすべての苦難や悲しみを知り尽くした上で、一人一人に関わってくださる。そして、わたしを用いて、導いてくださることを約束してくださる方なのです。
私たちはそのイエス様に招かれました。イエス様が地上にお生まれになってから2000年以上が経ちましたが、イエス様は始まりの時から何一つ変わっておられません。マタイ福音書を記したマタイが、富も地位も捨ててイエス様に付き従ったように、私たちもイエス様の地上でのご誕生を喜び、出会ってくださったことに感謝し、その方に倣うことを喜びとすることができるのです。
世界にあるキリスト教会は、時に権力に囚われ大きな間違いを犯します。イエス様への謙虚な信仰がぼやけてしまえば、クリスチャンといえどもいつ世の中に流されてしまうかわかりません。だからこそ私たちは神様が示してくださった愛と寄り添いの世界こそが、神様が喜ばれる世界であることを心に刻み、心が迷うときには「悔い改めよ」のヨハネの声を心に響かせながら、イエス様とともに歩んで参りましょう。
アドベントに入る直前に牧師が新型コロナに感染したため 何かと予定が狂い、礼拝堂の模様替えも 大幅に遅れてしまいました なんとかツリーもクランツも飾り終え ほっと一息ついた時の写真です 飯田教会は古く小さいのですが 写真写りは悪くない…と思っています いかがでしょう(^▽^) |
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