2024年6月6日木曜日

「神様の計画」(日曜日のお話の要約)

三位一体主日礼拝(聖霊降臨後第1主日)(2024年5月28日)(白)

イザヤ書 6章1-8節(1069) 

ローマの信徒への手紙 8章12-17節(284)

ヨハネによる福音書 3章1-17節(167)


 本日読みました旧約聖書のイザヤ書に「セラフィム」という名前の天使が登場します。6つの翼を持ち、一対の翼は顔を隠し、一対は足を覆い、残りの一対で飛び交っていた、とあります。セラフィムという名前は「火が盛んに燃える」という意味で、神への愛と情熱で体が燃えていることを表しています。炎の天使であるセラフィムがさらに炭火でイザヤに触れた、というのは、神様が預言者イザヤに神様への情熱をお与えにのだ、と受け取れます。


 イザヤ書を書いた預言者イザヤが活躍したのは紀元前8世紀ごろです。当時のユダヤの国は北と南に分かれていて、同じ民族でありながら緊張状態にありました。周辺諸国ともあまり良好な関係ではなく、北と南は同盟を組んだり戦ったりで、政治は全く安定しませんでした。そのような時に南王国の王様ウジヤが死んでしまったのです。ウジヤは非常に国を発展させた王様でしたから、民衆は不安でしかたなかったでしょう。このタイミングでイザヤは神様に見出され、御元に招かれます。そして神ご自身が、自らの思いを打ち明けられるのです。


 しかし、普通ユダヤ人は「神の存在を見たら命を失う」と教えられて育ちます。自分達人間は罪にまみれているので、聖なる神様の放つ光に耐えられない、という考え方が浸透していたのです。もちろんイザヤもそうでした。ですから「私は汚れた唇の民なのに神を見てしまったからもうだめだ、滅ぼされる」と言ったのです


 イザヤはそれまで不信心な生活をしていたわけではありませんでした。王宮に出入りし、高い教育を受けた教養ある人だったと推測できます。神の聖所で幻を見ていることから祭司だったのではないか、という説もあります。それでもイザヤは、自分には神様を見る資格もなければ、ましてや神様のみ言葉を人々に語るような人間ではないと思い込んでいました。そんな彼の考えを改めさせ、用いるために、神様は「セラフィム」に命じて彼の唇を清め、あなたの罪は赦された、と宣言されたのです。


 本人がいくら「自分はふさわしくない」と逃げ出そうとしても、神様の方が一度選んだ人を捉えて離さず、その人物をふさわしい器に作り替えることをなさってきたのです。


 神様のなさる事は数百年後のイエス様の時代になっても変わりませんでした。イエス様はご自分で一人一人弟子たちを招き、教え導かれました。彼らが社会的に見て何者であるかは関係なかったのです。


 さて、本日そんなイエス様と向き合ったのはニコデモという人物です。聖書にあるようにユダヤ人の議員で、ファリサイ派に所属し、豊かな聖書知識を持っていました。長年人々を導く教師として尊敬され、彼自身も自分は尊敬に値すると思ってきました。自分の人生に満足していたと言っても良いでしょう。しかし、年を重ねるにつれ、自分の信仰の在り方に確信が持てなくなって来たのです。


 自分の人生と聖書を照らし合わせると、神様の思いや計画に自分が沿っていないことがわかってきたのです。自分がしてきたことは、伝統にのっとって厳しく立ち振る舞っただけであって、神様の願われたことや、そのためのご計画をきちんと理解してやってきたのかといえばそうではない、頭では分かっているけどそれは結局理想論だ、と決めつけて諦め、否定する部分さえあったのです。


 イスラエルは常に大国の脅威にさらされていて、今もまたローマ帝国の支配の中にあり、ユダヤ社会の中にも身分格差がありました。ニコデモの同僚たちは、それも神様の計画の中にあることだ、と妥協しても、ニコデモはそう信じ込むことが出来なくなったのです。迷いに迷ったニコデモがイエス様の元を訪ねた時、イエス様から「本当に神様の道を知りたいなら、新たに生まれなければならない」と言われ、「年をとったものが、どうやったら母の胎内からやり直すことができるでしょうか」と、まるで売り言葉に買い言葉のようなセリフを言い放ったのは、彼の絶望の深さを物語っていたのかもしれません。


 しかしイエス様はニコデモ自信が自分の罪深さに絶望していること、神の御心を知ることのできないあがき、それらを全てご存じでした。だからこそ、聖書そのものを一言で表した御言葉、「神はその1人子を賜ったほどに、この世を愛された。一人子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という有名な御言葉がニコデモに向かって語られたのです。「あなたは神に愛されている」「そんなあなたのために私は死ぬのだ」この御言葉にはイエス様の深い愛と思いやりが込められています。しかしニコデモが「神の御子イエス様を信じることこそ新たに生まれ直すことなのだ」と理解するのはもう少し先のことでした。


 人間はどんなに正しく生きようとしても、完璧に正しいことを行える人はいません。自分は完全で神様の前にたっても恥ずかしいことは一つもない、と思っている人は、神様の目には単なる恥知らずに見えるのです。しかし自分が完全ではない、むしろ欠陥だらけで、これからの人生で取り返すことはもはやできない、と後悔に苦しむ人の心の傷にこそ、神様の愛が染み入っていく余地があるのです。


 私は強い人間だ、と思い込んで生きることより、自分の弱さを知るものこそ、神様に愛され、招かれていると知ることができるのです。遠い昔、預言者イザヤが、罪深い自分が神様を見たが故に滅びてしまうと思い恐れた時、そのイザヤの口に、セラフィムが炭火をあて、罪を清めた。それと同じことが起きるのですそれは21世紀の今も全く同じです。自分は完全でありえない、と苦しみ、悔い改める私たち一人一人だからこそ、神の使いとして役目を果たしていくことができるのです。

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