聖餐式・聖霊降臨後第2主日礼拝(2024年6月2日)(緑)
申命記 5章12-15節(289)
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章5-12節(329)
マルコによる福音書 2章23-3章6節(64)
安息という言葉は、辞書的には「何の煩いもなく、くつろいで休むこと」と記されています。私たちにとっては「安息日」という表現でお馴染みです。「安息」という言葉は聖書のページをめくってすぐ、創世記2章3節に登場します。神様が天地創造の為に6日間働いて7日目に安息されたので、ご自身がその日を特別な日と定められたのです。
またエジプトで奴隷の身分であったユダヤの民がエジプトを脱出した時、神様から十戒を授けらますが、申命記5章に「安息日を守ってこれを聖別せよ」と書かれています。続けて「6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」とあります。奴隷や家畜も、持ち主の義務として休ませなければならない、と記されています。
言うまでもなく、欧米文化の中で一週間に一日は休みを取るようになったのはここに由来しています。ちなみに、日本は明治になるまで一週間という考え方がなかったので、欧米とビジネスや外交をするのには非常に不便でした。そこで、明治9年になってようやく正式に日曜を休みと定めたのだそうです。しかし日本人の中に「神様を礼拝するための休み」という考え方はほとんどなく、レジャーや家族サービス、あるいはごろ寝の日として定着し、逆にクリスチャンが日曜日に礼拝に行くことを不思議がる人の方が多いようです。
そんな経緯から、日本の真面目なクリスチャンの方々は、神様を礼拝しに教会に集まることを「義務」、「仕事」と捉える方もいるでしょう。教会ではさまざまな奉仕のお役目が忙しく、「神様のもとで、のんびりとリラックスする」とか「仲間と共に神様の憐れみを受ける」と捉えるのはなかなか難しいかもしれません。
実はイエス様の時代も似たところがありました。本日のマルコ福音書をよく読みますと、二通りの捉え方が混在していることがわかります。
ここに登場する律法学者たちは聖書に記されている律法を解釈し、民衆に教える専門家でしたが、常日頃からイエス様と弟子達と対立していました。それはイエス様が律法を守らないことで腹を立てているというよりも、イエス様たちの群れがあまりにも自由なので、目ざわりに思え、それが憎しみに変わってしまったのです。
3章6節には、神様が与えてくださった「安息日」を巡って、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。これは彼らが「安息日」について拡大解釈を続けた結果、「安息日とはこうあるべし」という掟に自ら縛られてしまい、視野がも非常に狭くなっていたということなのでしょう。
当時の人々から見ればイエス様の「安息日」に対する捉え方や振る舞いは非常に独特で、時に理解を超えるものでした。神様の一人子であるイエス様は、人間とは異なり、全てのしがらみから自由でしたから、律法をちまちまと解釈するのではなく、大きなスケールで神様の御心を知っておられましたから、弟子たちが麦の穂を摘んで小腹を満たすくらいのことで目くじらを立てたりはなさいません。礼拝に行く前に、大の大人が麦の穂を揉んで殻を取り去り、イエス様と一緒に歩きながら、つまみ食いするように楽しげに口に入れる、何だか平和で微笑ましい様子です。
ユダヤの律法では、通りすがりに他の人の畑から麦の穂や果物などを少量いただくことは罪ではないことを律法学者たちも知っていました。しかしその行為が安息日であったため、「麦の穂を摘んで手で揉むのは脱穀で、労働である」と考えたのです。彼らは自分達の律法解釈が全て正しく、それに反するものは間違いである、と信じ込んでいました。同じ神様への信仰があるにもかかわらず、イエス様の御心とは完全にずれてしまっていたのです。
いつも人の粗探しをしてピリピリし、これは正しいあれは間違いと指摘し続け、そんな自分達こそ偉い人だ立派な学者だと尊敬されるのを好む彼らが、礼拝のために安息日に会堂に集っても、ほんとうの魂の安らぎはありません。神様の御心とかけ離れてしまっているからです。
マルコ福音書の3章ではイエス様が片手に障害のある人を癒されます。人々はイエス様を罠にかけるため、わざとこの人とイエス様を引き合わせたのです。もし何の業もしてはならないと定められた安息日にイエス様が苦しむ人を救うなら、それは正しい行いではない、という訳のわからない理屈なのです。
しかしイエス様はが罠であることを知りつつも、晒し者にされている気の毒な人を放置することはなさいませんでした。イエス様はその人に「手を伸ばしなさい」と言われ、神様の御心に沿った正しい癒やしの業をなさったのです。そして障害を持った人をダシにしてまで自分を陥れようとした人々の頑なな心を悲しまれたのでした。
先ほども申し上げましたが日本では、明治まで仕事の休みというものがなかったからか、今も安息を取るのが下手な民族だと言われています。教会に来ても、御言葉の中に慰めを見出すよりも、礼拝の後の奉仕の段取りにすっかり気を取られてしまうことも多いのです。
私たちは、ただ教会に来ただけで心休まるわけではありません。礼拝を通して、イエス様の言われたことやなさったことを思い、我が身に置き換え、過去に何があろうとも、今日からはじまる一週間再び神様と共に生きられると感謝するのです。その時、おのずと「安息」が与えられるのです。「安息」とは、人が真摯にイエス様を思い起こし、学び、信じることであり、これを繰り返すことで、安息とは何かと身についてくるのです。
6月1日は恒例の土曜学校でした
模様のついた折り紙や曲がるストローを使って
傘を作りました
7月からは冷房のないこの場所で
土曜学校を開くのは難しいので
場所を移す予定です
会堂はリノベーションに伴って
少し小さくなるので
この礼拝堂でこんな感じで土曜学校を開くのは
最後になるかもしれません
楽しいにしてくれているお友達を
がっかりさせないように
頑張って続けていくつもりです
お知らせを送りますから、待っていてくださいね
みんなで記念撮影 |
今回の「よいお顔大賞」のMちゃんです |
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