聖霊降臨後第3主日礼拝(2024年6月9日)(緑)
創世記 3章8-15節(4)
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章13-5章1節(329)
マルコによる福音書 3章20-35節(66)
私たちはイエス様を自分の導き手、リーダーとしてとらえています。ただ、信じてついて行こうとしても、完璧に、何の間違いもなく行動することはできません。自分の考えに固執して人を傷つけたり、言うべきことを言わないで全体に不利益を与えてしまうこともあります。しかしイエス様はそんな私たちに「悔い改め」の機会を与えて下さいます。本日の福音書は、そのことをはっきりと表しているのです。
先ほどご一緒に読んだところです。イエス様の元に群衆が癒しを求めて押し寄せ、弟子たちもイエス様も食事をする暇もないほどでした。その様子を見ていたのが律法学者たちです。彼らは「エルサレムから下ってきた」とありますので、中央からガリラヤ地方にやってきたエリートたちだったのでしょう。その彼らが「イエスは悪霊ベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力を使って悪霊を追い出している」と言いふらしたものですから、大きなトラブルに発展するのを恐れたイエス様の近親者がイエス様を取り押さえにやってきます。
しかし、イエス様はそもそも律法学者の言い分はおかしいことを指摘し、論破されます。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じようにサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。
続いて言われた「誰でもまず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を掠奪するものだ」。これは物騒な例えですが、要するにイエス様が悪霊を追い出し病人を癒されたのは、イエス様がすでに「強い人」サタンとの決戦に勝利を収め、彼を縛りあげ、彼が自分の獲物にしていたものを奪い返したからだ、とおっしゃったのです。イエス様がサタンの支配を打ち破ったからこそ、サタンに苦しめられていた人々がそこから解放され、癒され、自由になった、とおっしゃったのです。
こうしたやり取りの後、今度はイエス様の母と兄弟たちがやってきて、外に立ったまま人をやってイエス様を呼んだ、と書かれています。イエス様の周りにはイエス様を慕う人々が大勢座っていました。マリアたちはその輪に加わろうとはせず、「今やっている変なことはもうやめて帰ろう」と言わんばかりに自分の元へ呼び寄せようとしたのです。
するとイエス様は「そのような人々は自分と関係がない」とばかりに「私の母、兄弟とは、神様の御心を行う人なのだ」と宣言されるのです。この時イエス様の周りに座っていた人々が本当に信仰深い人々であったかといえば、そうでもなかったでしょう。しかし少なくとも、イエス様の言われること、なさることを素直な心で期待を持って見つめていました。イエス様のなさることをサタンの仕業だとか、頭がおかしいとか、やめた方がいいとか、そういったことは一切言いませんでした。
こののち、この民衆は手のひらをかえし、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ人々となったかもしれません。それでもイエス様は、ご自分のそばにいるこの群衆を愛し、ひとりひとりに癒しを行なわれました。家族の警告に心動かされることなく、その愛を示し続けたのです。イエス様は人々がご自分を何度裏切ったとしても、再びチャンスを与え、神の国へと導くのをやめないお方なのです。
神様はどれほど人々を愛しているかを示すために、神ご自身が、イエス・キリストをリーダーとして人々の元に遣わしてくださいました。そしてイエス様を家族のように慕い、思うことのできるよう、苦しむ人々の心がイエス様へイエス様へと向かうよう導いてくださったのです。
長い長い年月を経ても、イエス様の言われる「私の母、兄弟とは神様の御心を行う人なのだ」という宣言はいささかも揺らぐことはありません。そうして神様のご計画のもと、イエス様に結び付けられ、教会に集ったのが今の私たちなのです。
この繋がりは、血縁関係のあるなしで決まるものではありません。信徒の子どもがそのまま信徒になる、とは限りません。「イエス様を信じて教会につながるのがどのような人であるかを決めるのは神様の側の御心なのです。信仰によってつながることを神が大事になさるのです。
私たち一人ひとりがキリストをリーダーとし、そのキリストのリーダーシップに従う者として、これから歩みだすのです。
教会の駐車場の植え込みで
八重の立葵とがく紫陽花が咲き始めました
この花々を見ると「梅雨だなあ」と思います
礼拝堂のリノベーションが始まると
抜いたり切ったりすることになるでしょう
改めて植え直すつもりではありますが
きれいに咲いているのをいられるのは
今年が最後かもしれません
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