聖霊降臨後第5主日礼拝(2024年6月23日)(緑)
ヨブ記 38章1-11節(826)
コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1-13節(331)
マルコによる福音書 4章35-41節(68)
本日読みました聖書箇所には、イエス様が奇跡を起こして嵐を静められる出来事が記されています。ここに記されている出来事も、単に奇跡の一つと捉えるのではなく、わたしたちへの訓練と考えることができます。
4章の始まりを見ますと、この日イエス様は湖の上に浮かべた舟に乗って腰を下ろし、湖畔にいる群衆にお話をなさったと記されています。イエス様はそこに集まった人々の力量に合わせて、つまり聞いて理解する力に合わせて、神の国のたとえの話をなさいました。
一般の民衆はたとえ話イコール面白い話という受け止め方です。けれども、イエス様の弟子になった人々は、たとえの話を聞いて、そこに何が隠されているのか、自分なりに解釈しようと努力しました。でも、それが本当に正解なのか、確信が無かったかも知れません。そんな弟子たちをご覧になったイエス様は、弟子達を訓練するために、一つのアイデアを実行されます。それが「向こう岸を渡ろう」と呼びかけた今回の出来事なのです。
この日イエス様が民衆にお話を終えた時、もう夕方になっていました。イエス様の弟子達は漁師出身者が多かったので、夜に向こう岸を目指すのが危険だと経験で分かっていました。ここを人力で、正確な方向を見定めて漕いでいかなければならないのです。しかし彼らは「お言葉ですから」と従います。
舟がどれほど進んだかは分かりません。イエス様は舟の後部で眠っておられました。すると突然激しい風が吹いて来て、舟は水を被り、あっという間に水浸しになってしまったのです。
弟子たちはイエス様がそこにいてくださっているにもかかわらず、怯えきっています。むしろ今まで漁師としての経験があったため、こういう状況になったら舟は沈没するだろう、と思えて仕方なく、絶望と恐怖に打ちのめされているのです。
弟子たちは必死になって眠ってしまっているイエス様を起こそうとします。それはイエス様が溺れたら大変だ、というのではなくて、この大変な状況はあなたの責任ですよ、というような雰囲気です。そして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と泣き声を上げるのです。
ここで彼らが使った「溺れる」という言葉は、一般的には「滅ぼされる、殺される」という意味に使います。彼らは「私たちは滅ぼされてしまう」と、悲鳴をあげたのです。
するとイエス様は目を覚まして起き上がり風をしかり、湖に対して「黙れ、静まれ」と言われます。この「黙れ」という言葉は、「猿轡」を充てるという意味です。湖に猿轡を当てるというのは随分大胆な表現です。
イエス様は風に向かって静かにしろと叱り、海に猿轡を当られたのです。弟子たちを恐れさせ、その信仰を躓かせるような風や波を、イエス様はあっという間に止めておしまいになったのです。そして一言「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」そう声をかけられた弟子達は「いったい、この方はどなたなのだろう。風や波さえも従うではないか」と非常に恐れた、書かれています。
この、「弟子達は非常に恐れて」の「恐れて」とは、苦難や災害この場合は舟が天風して死にそう、という恐怖ではなく、自分達の常識を超えた、この世のものとは思えない偉大な方と出会ってしまった、という意味の畏れで、「畏怖」という言葉が当てはまるでしょう。
つまり、この時弟子達は、目の前にいるイエス様が、自分達人間とは全く違う「まことの神なのではないか」と感じ始めたということです。波や風までが聴き従うのならば、私たちもこの方、キリストの助けを信じきって従っていくのは当然ではないか、と互いに話し合ったのです。
実はマルコによる福音書のこの出来事は、後世のキリスト者たちが耐え忍ばなければならないであろう迫害の出来事を、比喩として語った、とも言われています。簡単に言えば、弟子たちが乗っている舟とは教会であり、襲ってくる嵐とはキリスト教に対する迫害です。そう捉えてこのお話をもう一度見てみますと、今までと少し違うものが見えてくるのではないでしょうか。
日ごろはイエス様が共にいるから大丈夫、と口にしているキリスト者の群れ、つまり教会が思わぬトラブルにあう。そこで信仰が大いに揺さぶられ、「イエス様は私たちがどうなっても良いのだ」と絶望し、泣き声を上げます。そのとき、イエス様はそもそも教会の人々を見捨てるおつもりはありませんから、たちまちトラブルを解決しておしまいになる。
畏れつつも喜んだ人々は、イエス様から「もう少し信仰を強く持ちなさい」とお叱りを受け、自分の信仰の弱さに恥入りつつ感謝を捧げる。そのようなストーリーが見えてきます。
この時のイエス様のお言葉、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」をもう一度考えてみましょう。これは詳しく訳しますと、「恐怖は持つのに、なぜ信仰は持たないのか」という意味になります。恐いなら、なぜもっと信仰を働かせないのか、私を信じて頼らないのか、と言われることに気づかなければならないのです。
私たちは「もうだめだ」と弱音を吐く前に、本気でイエス様に頼っているかがいつも問われることになるでしょう。そこにはキリストの助けがあることを、よく理解しておきましょう。個人的な不安や恐れを超えて、キリストから与えられた信仰だけが、神様の平和をここにもたらすことができるのです。
今日の礼拝は、その始まりにルーテルキッズバンドが毎週日曜日に集まって練習してきた曲の中から4曲を選んで、この会堂でこういう形で礼拝をするのは最後になりますから、感謝を込めてのミニコンサートでした。いつものことですが、練習の時より緊張していて、練習の時より小さな声になってしまうのですが、純粋に感謝を込めて特別賛美をしてもらいました。
7月から会堂のリノベーションが完了する来年3月まで、信徒さんから提供していただいたお家で礼拝と日曜学校をすることになります。
色々な困難が予想されますが、大人も子どもも心を一つにして「向こう岸へ渡りきる」ことを目指します。
その時にはもっともっと多くの方と一緒に賛美の歌声を響かせるだろうと信じています。
0 件のコメント:
コメントを投稿