2024年6月30日日曜日

聖霊降臨後第6主日礼拝(2024年6月30日)(緑)

詩編 30編2-13節(860) 

コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章7-15節(334)

マルコによる福音書 5章21-43節(70)

説教「いのちの主キリスト」         朝比奈晴朗


 本日の福音書には、多くの人々が登場し、複雑なドラマが展開されます。まずヤイロとヤイロの娘、長血を患った女性、そして彼や彼女たちを取り巻く群集です。ちなみに「ヤイロ」という名前は、「神が光を与えて下さる」という意味で、希望に満ちたイメージを持った名前です。


 ヤイロの仕事は会堂長でした。会堂長というのはユダヤ教の集会所で礼拝を取り仕切ったり、建物や施設の管理をする人物のことです。シナゴーグと呼ばれるこの集会所はユダヤ教を信じる人々が住むところには必ずあり、その数だけ会堂長がいました。周りの人々がヤイロを気遣っている様子から、彼は町の人々にも慕われる、真面目で信仰的な人物であったようです。


 しかし、ヤイロがこれまでどんなに誠実で真面目であったとしても、悲しみは突然やってきます。なぜ自分がこんな目に遭うのか、と苦しみ悲しむのです。ただ、この時彼は嘆くだけでなく、恥も外聞も捨てて、イエス様に頼ることにしました。イエス様はヤイロの苦しみに寄り添い、一刻も早く癒してあげようと一緒に出かけられたました。ところがその途中で思わぬ事態に遭遇するのです。


 それは12年間もの間、病に苦しむ女性が「イエス様なら癒してくださる」と信じてこっそりイエス様の衣に触れる、という出来事でした。二つの出来事が交錯したこの奇跡物語は非常に印象深く、他の福音書マタイとルカにも記録されています。


 この出来事は後で触れますが、このアクシデントによってイエス様は一旦足止めされます。急かすわけにもいかず、ヤイロはジリジリしながら待っていたことでしょう。そこへ無慈悲な知らせが届きます。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」ヤイロの娘は死んだから、イエス様に来てもらうには及ばない、という知らせだったのです。


 しかしこれを聞いたイエス様はヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」と話しかけられます。ヤイロは呆然としたまま、イエス様に促されるままに家へと向かいます。到着しますと、そこに集まっていたのは娘のために嘆き悲しむ人々でした。葬儀の場で泣き崩れ、取り乱すことで葬儀を充実させるため、職業としての泣き女まで参列させるのがこの地の文化でした。


 ここでイエス様が「泣くな」と静止されて「死んだのではない、眠っているのだ」と言われた時、その場にいた人々は嘲笑います。彼らは娘がもはや息をしておらず、体から体温が奪われていく状態を見ていました。人々に、ほんの少しでもイエス様への信仰があったなら、「もしかして」と、そのお言葉に期待して沈黙したかもしれません。残念ながらここにいる人々にはそのような信仰はなく、蘇るなんてあり得ない、と完全に諦め、イエス様をホラ吹きのように思い、笑ったのです。


 集まった人々は、「人間は死んだらそれでおしまいなのだから、風習通りに葬儀をきちんと行うことがこの家族のためだ」と思い込んでいました。その様子をご覧になったイエス様は、彼らが神の国を見失っていることを嘆かれたことでしょう。人々のそんな不信仰を覆し、彼らの視線を神様に向けさせるために、イエス様は奇跡を行われたのです。


 イエス様が少女に呼びかけ「娘よ、起きなさい」と命じられると、たちまちお言葉通りに彼女の霊が戻ってきて、娘は起き上がります。イエス様は「食べ物を与えるように」おっしゃいますが、それは「ぐっすり眠った後で、お腹が空いているだろうから」とまるで日常の一場面のようにおっしゃるのです。


 イエス様にとって死と蘇りは全てが神のみ手の中にあって、御心に叶うなら命は死から解放されることをご存知でした。この少女の身に起こった出来事を通して、神様にできないことはなく、命の終わりになすすべもなく怖がる私たちに向かって、そのしがらみから自由になる方法はあるのだ、と教えてくださったのです。


 さて、後回しになってしまいましたが、ヤイロの家に向かう途中に起こった12年間長血を患う女の人の話にも触れておきましょう。こちらの奇跡の中で印象的なのは、長年苦しんできた女性に対するイエス様の「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉でしょう。


 わたしたちにとって「救い」という言葉のイメージは、「何の労苦なく生きていきたい」「重い怪我も病気もなく、長生きしたい」「愛しい親族や家族と共に穏やかに暮らしたい」といった願いに直結するかもしれません。しかし、そんな人生が送れる人は、おそらくこの世の中に誰一人いないでしょう。わたしたちを取り巻く世界はそれほど暗く罪深く、悪意に満ちたところがあるのです。


 しかしそのような世界にあっても、私たちは決して一人ではないのです。わたしたちの命の主、イエス・キリストが傍にいてくださることに気付きさえすれば、わたしたちの人生観は大きく変わるのです。


 長血の女のいやしが行われた後、イエス様はこの女の人に向かって「娘よ」と呼びかけられました。今まで不幸の中にあった女性に向かって、あなたが私を信頼してくれたから、私もあなたを愛するわが娘として見守っていこう、というお言葉でもあるのです。そしてまた、この出会いは決して偶然ではなく、神様の御心に中にあった、ということも示しておられるのです。


 苦難や死を前にして、毅然としてイエス様を信じて従っていくことは簡単ではありません。しかし躓いても転んでも、泣きながらでもイエス様について行こうとする姿をイエス様は美しいと言ってくださり、立派だと褒めてくださるのです。私たちがイエス様をいのちの主とを受け入れるなら、その関係は強く結ばれるのです。



7月6日の土曜学校は「サンドアート」ならぬ「ソルトアート」です

塩にパステルで色をつけ、ガラス瓶に入れていきます

楽しいですよ

礼拝堂はとんでもない暑さになるかもしれないので

礼拝が終わったらゆり組の教室をお借りして

「ソルトアート」を楽しむ予定です






2024年6月24日月曜日

「キリストの助け」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(2024年6月23日)(緑)

ヨブ記 38章1-11節(826) 

コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1-13節(331)

マルコによる福音書 4章35-41節(68)


 本日読みました聖書箇所には、イエス様が奇跡を起こして嵐を静められる出来事が記されています。ここに記されている出来事も、単に奇跡の一つと捉えるのではなく、わたしたちへの訓練と考えることができます。


 4章の始まりを見ますと、この日イエス様は湖の上に浮かべた舟に乗って腰を下ろし、湖畔にいる群衆にお話をなさったと記されています。イエス様はそこに集まった人々の力量に合わせて、つまり聞いて理解する力に合わせて、神の国のたとえの話をなさいました。


 一般の民衆はたとえ話イコール面白い話という受け止め方です。けれども、イエス様の弟子になった人々は、たとえの話を聞いて、そこに何が隠されているのか、自分なりに解釈しようと努力しました。でも、それが本当に正解なのか、確信が無かったかも知れません。そんな弟子たちをご覧になったイエス様は、弟子達を訓練するために、一つのアイデアを実行されます。それが「向こう岸を渡ろう」と呼びかけた今回の出来事なのです。


 この日イエス様が民衆にお話を終えた時、もう夕方になっていました。イエス様の弟子達は漁師出身者が多かったので、夜に向こう岸を目指すのが危険だと経験で分かっていました。ここを人力で、正確な方向を見定めて漕いでいかなければならないのです。しかし彼らは「お言葉ですから」と従います。


 舟がどれほど進んだかは分かりません。イエス様は舟の後部で眠っておられました。すると突然激しい風が吹いて来て、舟は水を被り、あっという間に水浸しになってしまったのです。


 弟子たちはイエス様がそこにいてくださっているにもかかわらず、怯えきっています。むしろ今まで漁師としての経験があったため、こういう状況になったら舟は沈没するだろう、と思えて仕方なく、絶望と恐怖に打ちのめされているのです。


弟子たちは必死になって眠ってしまっているイエス様を起こそうとします。それはイエス様が溺れたら大変だ、というのではなくて、この大変な状況はあなたの責任ですよ、というような雰囲気です。そして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と泣き声を上げるのです。


 ここで彼らが使った「溺れる」という言葉は、一般的には「滅ぼされる、殺される」という意味に使います。彼らは「私たちは滅ぼされてしまう」と、悲鳴をあげたのです。


 するとイエス様は目を覚まして起き上がり風をしかり、湖に対して「黙れ、静まれ」と言われます。この「黙れ」という言葉は、「猿轡」を充てるという意味です。湖に猿轡を当てるというのは随分大胆な表現です。


 イエス様は風に向かって静かにしろと叱り、海に猿轡を当られたのです。弟子たちを恐れさせ、その信仰を躓かせるような風や波を、イエス様はあっという間に止めておしまいになったのです。そして一言「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」そう声をかけられた弟子達は「いったい、この方はどなたなのだろう。風や波さえも従うではないか」と非常に恐れた、書かれています。


 この、「弟子達は非常に恐れて」の「恐れて」とは、苦難や災害この場合は舟が天風して死にそう、という恐怖ではなく、自分達の常識を超えた、この世のものとは思えない偉大な方と出会ってしまった、という意味の畏れで、「畏怖」という言葉が当てはまるでしょう。


 つまり、この時弟子達は、目の前にいるイエス様が、自分達人間とは全く違う「まことの神なのではないか」と感じ始めたということです。波や風までが聴き従うのならば、私たちもこの方、キリストの助けを信じきって従っていくのは当然ではないか、と互いに話し合ったのです。


 実はマルコによる福音書のこの出来事は、後世のキリスト者たちが耐え忍ばなければならないであろう迫害の出来事を、比喩として語った、とも言われています。簡単に言えば、弟子たちが乗っている舟とは教会であり、襲ってくる嵐とはキリスト教に対する迫害です。そう捉えてこのお話をもう一度見てみますと、今までと少し違うものが見えてくるのではないでしょうか。


 日ごろはイエス様が共にいるから大丈夫、と口にしているキリスト者の群れ、つまり教会が思わぬトラブルにあう。そこで信仰が大いに揺さぶられ、「イエス様は私たちがどうなっても良いのだ」と絶望し、泣き声を上げます。そのとき、イエス様はそもそも教会の人々を見捨てるおつもりはありませんから、たちまちトラブルを解決しておしまいになる。


 畏れつつも喜んだ人々は、イエス様から「もう少し信仰を強く持ちなさい」とお叱りを受け、自分の信仰の弱さに恥入りつつ感謝を捧げる。そのようなストーリーが見えてきます。


 この時のイエス様のお言葉、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」をもう一度考えてみましょう。これは詳しく訳しますと、「恐怖は持つのに、なぜ信仰は持たないのか」という意味になります。恐いなら、なぜもっと信仰を働かせないのか、私を信じて頼らないのか、と言われることに気づかなければならないのです。


 私たちは「もうだめだ」と弱音を吐く前に、本気でイエス様に頼っているかがいつも問われることになるでしょう。そこにはキリストの助けがあることを、よく理解しておきましょう。個人的な不安や恐れを超えて、キリストから与えられた信仰だけが、神様の平和をここにもたらすことができるのです。




 今日の礼拝は、その始まりにルーテルキッズバンドが毎週日曜日に集まって練習してきた曲の中から4曲を選んで、この会堂でこういう形で礼拝をするのは最後になりますから、感謝を込めてのミニコンサートでした。いつものことですが、練習の時より緊張していて、練習の時より小さな声になってしまうのですが、純粋に感謝を込めて特別賛美をしてもらいました。

 7月から会堂のリノベーションが完了する来年3月まで、信徒さんから提供していただいたお家で礼拝と日曜学校をすることになります。

 色々な困難が予想されますが、大人も子どもも心を一つにして「向こう岸へ渡りきる」ことを目指します。

その時にはもっともっと多くの方と一緒に賛美の歌声を響かせるだろうと信じています。






2024年6月16日日曜日

「レバノン杉と湖畔の黄色い花」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝(2024年6月16日)(緑)

エゼキエル書 17章22-24節(1320) 

コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章6-17節(330)

マルコによる福音書 4章26-34節(68)


 本日、読みましたエゼキエル書に「レバノン杉」という単語が登場します。現在では伐採されすぎて、レバノン杉の森は消滅し、レバノン等のごく一部の地域で保護扱いされているとのことですが、古代は中東一帯に広く自生していました。


 紀元前900年代、イスラエルの神殿が建設されるとき、神殿の材料として高級建材のレバノン杉が用いられることになったのです。ダビデ王が周辺諸国の敵を退け、イスラエルが安定期を迎えた時、ダビデ王は神殿を作ることを思い立ちます。自分はレバノン杉の家に住んでいるのに、神様にはきちんとした家がないことが気になったからです。


 しかし神様は預言者を通して、ダビデではなく、その息子のソロモンに神殿を建てさせるようお命じになりました。そこでダビデは材料だけでも準備しておこうと、周辺諸国に協力させてレバノン杉を運ばせた話が有名です。


 そして先ほど読んでいただいたエゼキエル書17章には、神様が「高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その若枝を折ってイスラエルの高い山に移し植え」ます。そうすると、「あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」というのです。


 エゼキエル書が書かれた当時、イスラエルはバビロニア帝国との戦いに敗れ、主だった人々はバビロンに強制的に移住させられました。エゼキエルは故郷に戻れないイスラエルの人々の指導者として活動し、人々が信仰を失わないよう、預言者として神様の言葉を伝える役割を負っていました。


 ここで記されている「レバノン杉」とは、不遇な状態となって他国に生きることになっても、高い山に移し植えられたレバノン杉が再び栄えるように、イスラエルの人々も再び新しい国を作っていくことができる、そのように神様が導いてくださっている、その希望の言葉なのです。


 一方イエス様はマルコ福音書で「からし種」を例えになさって「どんな種よりも小さいが、成長すれば葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」とおっしゃいます。これは明らかにエゼキエル書からの引用で「あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」という御言葉を、人々に意識させるものです。「レバノン杉」をあえて「からし種」の話に再構築なさったのです。


 この時のイエス様は「神の国とはどのようなところか」というテーマでお話をされていました。そして、かつてダビデ王が権力に物を言わせ、エルサレムの神殿建築のためにの各地から捧げさせたレバノン杉、誰もが認める高級木材によって作られた神殿を引き合いに出されました。そして、自分達の身の回りにある、平凡で小さなからし種であっても、レバノン杉の神殿にも勝る神の国をこの地上に生み出せるのだ、とお告げになったのです。


 そしてその影に巣を作る空の鳥とは、喜んでみ言葉を受け入れ、イエス様の元に集う人々のことです。ユダヤ人も異邦人も、金持ちも貧しいものも、共に神様の救いに預かれる世界をイエス様は語っておられるのです。「天の国」は小さな種が大きく成長するように全世界の人々のために成長していく、と語られるのです。


 聖書のからし種に該当する植物は諸説あるようですが、黒ガラシと言われる植物の種、という説が有力です。一粒わずが0.5ミリ程度ですが、成長すると3メートル近くになるアブラナ科の植物で、野菜やハーブとして用いられます。


 わたしは教会学校の時分に先生から「粉のように小さなからし種」の種を見せてもらいましたが、強い印象はありませんでした。しかし聖書の世界を知りたくてイスラエル旅行に行った19歳の3月、印象を変える出来事がありました。


 何日目にかに、ガリラヤ湖のクルージングが予定されていたものの、その日は天候が悪く、嵐が起こり雹も降り出しました。しかしガイドさんが真顔で「イエス様は嵐を静める方だから大丈夫」と、予定通り決行することになりました。そしてガリラヤ湖のカモメに餌付けできるからと、ホテルのパンを持たせてくれました。波の荒いガリラヤ湖で船に揺られながら、船についてくるカモメに向かってパンを投げると、上手に空中でキャッチし、食べるのです。その姿に一同拍手喝采です。


 やがて大群だったカモメは一羽になり、最後のパンのひとかけらを投げると、それをぱくついて、もうないと分かると、岸部の方へと帰っていきました。飛び去るカモメを目で追っていると、雲の隙間からさっと日の光が差し込み、岸部が明るく照らされ始めました。


 光の当たっているところを見てみると、背の高い、菜の花のような黄色い花が、日差しに導かれて広がるように咲き進んでいくように見えました。誰かの「ほら、あれがからし種の花だよ」という言葉を耳にし、飛んで行ったカモメが美しい世界に辿りついたように感じました。その時、これがイエス様の言われる神の国、天国だとさえ思えたのです。


 私たち今、飯田ルーテル教会という舟に乗る乗組員の一人です。今は人の集まることの少ない嵐の時代に突入しているかも知れません。そのような中、この舟は改めて新しい航海に出発することとなりました。イエス様の望まれる神の宮、教会とは、レバノン杉のように高級な材料によってのみ作られるのではなく、出だしは小さく平凡でも、やがて大きくなる可能性を秘め、そこに集うならば御言葉による喜びと平安が与えられ、イエス様のお守りのうちにあらゆる心配から遠ざけてくれるからし種のよう。そのような教会になると思うのです。


 完璧完全ではなくても、互いに罪の赦しを覚え、御心に添った神の宮であるこの教会をこれからより一層大切にして参りましょう。



まだ梅雨入りもしていないというのに
真夏日が続いています
強い西陽に照らされながら紫陽花が健気に咲き始めました
その横のブリキのカエルは一年中傘を刺していますが
こんなに似合わないお天気もないように思えてしまいます




2024年6月10日月曜日

「キリストのリーダーシップ」(日指のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2024年6月9日)(緑)

創世記 3章8-15節(4) 

コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章13-5章1節(329)

マルコによる福音書 3章20-35節(66)


 私たちはイエス様を自分の導き手、リーダーとしてとらえています。ただ、信じてついて行こうとしても、完璧に、何の間違いもなく行動することはできません。自分の考えに固執して人を傷つけたり、言うべきことを言わないで全体に不利益を与えてしまうこともあります。しかしイエス様はそんな私たちに「悔い改め」の機会を与えて下さいます。本日の福音書は、そのことをはっきりと表しているのです。


 先ほどご一緒に読んだところです。イエス様の元に群衆が癒しを求めて押し寄せ、弟子たちもイエス様も食事をする暇もないほどでした。その様子を見ていたのが律法学者たちです。彼らは「エルサレムから下ってきた」とありますので、中央からガリラヤ地方にやってきたエリートたちだったのでしょう。その彼らが「イエスは悪霊ベルゼブルに取りつかれている」とか「悪霊の頭の力を使って悪霊を追い出している」と言いふらしたものですから、大きなトラブルに発展するのを恐れたイエス様の近親者がイエス様を取り押さえにやってきます。


 しかし、イエス様はそもそも律法学者の言い分はおかしいことを指摘し、論破されます。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じようにサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。


 続いて言われた「誰でもまず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を掠奪するものだ」。これは物騒な例えですが、要するにイエス様が悪霊を追い出し病人を癒されたのは、イエス様がすでに「強い人」サタンとの決戦に勝利を収め、彼を縛りあげ、彼が自分の獲物にしていたものを奪い返したからだ、とおっしゃったのです。イエス様がサタンの支配を打ち破ったからこそ、サタンに苦しめられていた人々がそこから解放され、癒され、自由になった、とおっしゃったのです。


 こうしたやり取りの後、今度はイエス様の母と兄弟たちがやってきて、外に立ったまま人をやってイエス様を呼んだ、と書かれています。イエス様の周りにはイエス様を慕う人々が大勢座っていました。マリアたちはその輪に加わろうとはせず、「今やっている変なことはもうやめて帰ろう」と言わんばかりに自分の元へ呼び寄せようとしたのです。


 するとイエス様は「そのような人々は自分と関係がない」とばかりに「私の母、兄弟とは、神様の御心を行う人なのだ」と宣言されるのです。この時イエス様の周りに座っていた人々が本当に信仰深い人々であったかといえば、そうでもなかったでしょう。しかし少なくとも、イエス様の言われること、なさることを素直な心で期待を持って見つめていました。イエス様のなさることをサタンの仕業だとか、頭がおかしいとか、やめた方がいいとか、そういったことは一切言いませんでした。


 こののち、この民衆は手のひらをかえし、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ人々となったかもしれません。それでもイエス様は、ご自分のそばにいるこの群衆を愛し、ひとりひとりに癒しを行なわれました。家族の警告に心動かされることなく、その愛を示し続けたのです。イエス様は人々がご自分を何度裏切ったとしても、再びチャンスを与え、神の国へと導くのをやめないお方なのです。


 神様はどれほど人々を愛しているかを示すために、神ご自身が、イエス・キリストをリーダーとして人々の元に遣わしてくださいました。そしてイエス様を家族のように慕い、思うことのできるよう、苦しむ人々の心がイエス様へイエス様へと向かうよう導いてくださったのです。


 長い長い年月を経ても、イエス様の言われる「私の母、兄弟とは神様の御心を行う人なのだ」という宣言はいささかも揺らぐことはありません。そうして神様のご計画のもと、イエス様に結び付けられ、教会に集ったのが今の私たちなのです。


 この繋がりは、血縁関係のあるなしで決まるものではありません。信徒の子どもがそのまま信徒になる、とは限りません。「イエス様を信じて教会につながるのがどのような人であるかを決めるのは神様の側の御心なのです。信仰によってつながることを神が大事になさるのです。


 私たち一人ひとりがキリストをリーダーとし、そのキリストのリーダーシップに従う者として、これから歩みだすのです。


教会の駐車場の植え込みで

八重の立葵とがく紫陽花が咲き始めました

この花々を見ると「梅雨だなあ」と思います

礼拝堂のリノベーションが始まると

抜いたり切ったりすることになるでしょう

改めて植え直すつもりではありますが

きれいに咲いているのをいられるのは

今年が最後かもしれません