2017年5月19日金曜日

―最近読んだ本からー 「国家神道と日本人」島薗進著

―最近読んだ本からー
「国家神道と日本人」島薗進
            岩波新書(新赤版)1259
発行 2016721日 第6刷発行    
           発行者 岡本厚
           印刷所 株式会社 岩波書店
 日本人は無宗教という言い方がしばしばなされる。島薗氏は、それに対して、そうであろうかと最初に疑問を出されている。この書を読む契機となったのは、尊敬する先輩の牧師先生が、島薗進氏の記事がその日の朝日新聞に載っているから是非読みなさいとのアドバイスからであった。
 早速、店で朝日を買ってきて読んだのである。それは、確か現在の安倍内閣の伊勢神宮参拝などの動向を危惧するものであったと思う。その記事の終わりに、先生の著書として、この本が挙げられていたので、買っておいたのである。先生は1948年生まれであるから、まだ69歳であり、今もなお、現代日本社会に対して、この著書のような発言をなさっておられることを思うと心強い。
 日本の神道の影響の多大であることを、島薗先生は、宗教学の立場から明らかにしておられる。一口に神道といってもその定義付けは難しく、特に明治維新以降の国家神道が、日本社会に及ぼした内容について、多くの側面から考察を展開しておられる。そして、国家神道の中心に天皇崇敬があり、皇室祭祀と神社神道が、紆余曲折を遂げながら、明治憲法、教育勅語などを転機として、戦時体制を整えていく展開となっていく。
 その中で、仏教や新宗教も取り込まれていったと大枠では捉えることができよう。明治維新の前から、尊王攘夷では一致していたとはいえ、神道と、国学、儒学の間での相克も一筋縄ではいかなかった歴史が検証されている。
 この著書の中では、内村鑑三の不敬事件が取り上げられているが、キリスト教、西洋思想は、明治政府の国家神道を日本国の国体とする政策の中で一貫して遠ざけられていくのである。では、象徴天皇制となった現在ではどうなっているのか。島薗先生は、国家神道、天皇の皇室祭祀を中心とする実態、意識、風土といえようか、それは今も形を変えながら存在していると見ておられる。

 天皇や皇室に対する敬慕の念は確かに日本人一般に今なお大きい。そのような中で、私たちは、世界大戦に突入していった日本人の宗教観や価値意識に国家神道が与えた影響力を忘れることはできないし、それはまた、現在も続いている大きな課題であることを正視しなければならないと改めて自覚させられた。今後とも島薗先生の働きに注目し、学ばせていただきたいと願っている。

2017年5月16日火曜日

「場所を用意しに行かれるみ子」(ヨハネ福音書第14章1節~14節)

ヨハネによる福音書第141-14節、2017514日(復活後第4主日礼拝―白―)、使徒言行録第171-15節、ペトロの手紙一第24-10節、讃美唱146(詩編第1461-10節)
 
説教「場所を用意しに行かれるみ子」(ヨハネ福音書第141節~14節)

 先週は「主の憐みの日」の礼拝として、ヨハネ福音書第101節から16節の」「私が良き羊飼い」との主のみ言葉を聞きました。今年は主たる福音はマタイ福音書ですが、私たちは、残すところ2回の復活後の主日も、ヨハネ福音書から、福音の記事が与えられています。しかも、今朝と次の主の日にはいずれも、最後の晩餐の記事の中から、今日の個所とそれに続く個所が読まれます。
 復活節を祝うこの時期に、今日の個所が選ばれているのはなぜなのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 主イエスは、ここで、あなた方の心を騒がせないがよいと語り始めておられます。もう数時間後には、裏切ったユダが、エルサレム当局の者たちと共に、主を捕えに来る。そして、主の命がこの世から絶たれる時が迫っている。11弟子たちは、本能的にそのことを直感していたに違いありません。その時に主は、この言葉を語られる。そして、続けて、「神を信じゆだねなさい、そして私をも信じなさい」と言われます。弟子たちは、自分の生涯を傾けてきた大きな支えを失おうとしている。自分のすべてを賭けてきた主イエスがいなくなることを、肌で感じ取っている恐怖と不安のどん底にあったともいえる弟子たちに、おののくことはない、神にゆだねなさい、そして、私へと信じゆだねればいいと言われます。
 私たちも、しばしば、それに近い試練や危機にぶつかり、不安に打ちのめされそうになります。しかし、この主の言葉によって、それを乗り越えることができるのであります。
 主は続けて、不思議な言葉をここに残されています。「私は、あなた方のために、父の家に場所を用意しに行く」と言われている。私の習った宣教師の先生は、教会学校の分級で、中学クラスを一緒に教えるときに、今日の個所をある日のテキストとして選ばれ、このような言葉を語った人は、イエス様の他にはだれもいませんと語られたのを、今も鮮明に覚えています。
 主は、父の家には多くの住まいがある。そうでなければ、あなた方のために場所を用意しに行くといっただろうか。そして、私は場所を用意したら、また、やって来る。そして、あなた方をそこへ連れて行くであろう。そうして、私にいるところに、あなた方もいることになると言われます。
 復活節を祝っているこの日に、今日のみ言葉が与えられているのは、主がこの後、苦しめられ、十字架の死を遂げ、三日後によみがえり、天の父の父の右の座にお座りになることの意味を、今日の個所が表しているからではないでしょうか。
 主は、続けて、あなた方は、私が行くところ、その道を知っていると語られます。すると、あのトマスが、「主よ、あなたが行くところ、その道を私たちは知りません。どうして、知ることができましょうか」と質問するのです。
 主を慕って、一心についてきたトマスの、愚直といえば愚直な問いかけであったかもしれません。しかし、主はそれを無視して、答えられないようなお方ではありません。この問いかけによって、私たちに最も必要な主の言葉の一つが残されることになったとも言えましょう。主は、「私が、道であり、真理であり、命である。私を通らないでは、だれも父のもとにやって来る者はいない」と言われたのであります。私があなた方に道を教えようというのではないのです。私が道であると言われます。父なる神のみことに行くには、子であるキリストを通してでなければ、到達することはありえないと言われます。
 他にも、道はあるのではないかと考えがちな私どもに、まことと命に通じる道は、私の他にないと言われます。それが、分かれば、私どもは、もはや、どのような試練にあっても、心騒がすことはなくなるのではないでしょうか。
 さらに、今度は、フィリポが、「主よ、神を見せてください。そうすれば、私どもは満足します」と懇願するのであります。
 主は、フィリポよ、あなたはこんなに長く私と一緒にいるのに、父がわからないのか。私を知った者は、父をも知っているのである。今から、あなた方は父を知っている、否、父を見ているのであると言われます。
 神を見た者は、死なねばならないと、旧約聖書では信じられていました。
しかし、主はここで、私を知る者は、父をも知っており、父を見たのであるとまで言われるのであります。そして、私は、父の内におり、父も、私の内におられる。私が語っている言葉は、父が私においてなさっているみ業なのであると言われます。そして、そのことを信じる者は、私のしている業を行い、さらには、私よりももっと大いなることを行うことになると、弟子たちに、そして、信じる私どもに約束なさっておられるのです。今の世界中に広がっている教会の働きの預言であります。
 そして、その働きのためにも、主は、何事でも、私の名において要求しなさい、そうすれば、私がそれを行うであろうと、主のみ名による祈りの必要性を教えておられます。主を、そしてその父なる神を信じるということは、主イエスの名において、祈り求めるということであります。主の命の唯一の道に生かされ、常に心騒がされないで、宣教の働きへと励む者とされたいものです。













                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2017年5月10日水曜日

「迷わず生きるために」(ヨハネによる福音書第10章1節~16節)

ヨハネによる福音書第101-16節、201757日(復活後第3主日礼拝―白―)、使徒言行録第61-10節、ペトロの手紙一第219-25節、讃美唱23(詩編第231-6節)
   
説教「迷わず生きるために」(ヨハネによる福音書第101節~16節)

 私どもは、この復活節の4回目の主の日に、今日の「私はよい羊飼いである」という主イエスご自身がご自分こそが「良き羊飼い」であるとの主の残されたお言葉を聞かされています。
 昔から、この箇所が、主の復活後の第2あるいは、私どものように第3といった主の日に読まれ、「主の憐みの主日」の福音として大切にされてきました。この記事は、生まれつき盲人であった人の眼に主イエスが唾で泥をねり、お付けになって眼を見えるようにされたその第9章の出来事に続いて記されている主のお言葉であります。そして、昔から教会が大きな危機に面したときに、この箇所を通して、繰り返し説教がなされ、教会が教会であることを主イエスがご自分について語っておられるそのお言葉を通して、確認し、あるべき道をその都度、取り戻してきた大切な部分でもあります。
 主イエスは、まず羊と羊飼いについて、ここで語り始めておられます。羊は、羊の囲いの中で初めて安全に保たれるものである。羊飼いが羊たちを中へと導き、門番、見張りは羊飼いに、門、戸口を開き、羊は、羊飼いの声を聞き分け、従っていく。
 ところが、その羊の囲い、柵を乗り越えて、別のところから入る者がおり、それは盗人であり、強盗である。しかし、羊たちは、彼らにはついていかず、その声には従わないと主イエスは語られました。それは、だれに語られたのか。原文では、彼らにとしかないのですが、それは、第9章から続いていた、対立していたファリサイ派の人たちに対してでありました。
 彼らは、そのたとえが、何のことを、主イエスが語っておられるのか、まったく分からなかったともとの言葉では強い言葉で書かれています。ここでの「たとえ」というのは、ことわざ、格言とか謎めいた言葉、隋のある言葉といった意味です。ここでは、主イエスが、自分たちを、羊の囲いに塀を乗り越えて侵入してくる者だと、主がたとえられたのを、このユダヤ人たちは認めることは到底できなかった。というよりも、むしろそのようなことには思いも及ばなかったのであります。しかし、羊たちは、羊飼いの声を知り、見分けてついていく。そして、その一人が、すぐ前に詳しく記されている、主によって、眼に泥を塗って見えるようにされた、生まれつき眼が見えなかった人であります。
 そこで、主イエスは、再び、まことに、まことに、あなた方に言っておくが語り直されるのであります。
 私は、羊たちの門であると言われています。羊たちは、その門、あるいは戸口を出たり入ったりし、また、彼らは牧草を見出す。私は、門であって、それは、羊たちが命を持つため、しかも豊かに持つためであるという。そして、私より前に来た者は、いづれも、盗人であり、強盗であるとまで言われます。それは、この言葉を聞いているファリサイ派やユダヤ人の指導者たちを指して言っておられるのです。
 そして、主は、「私は良い羊飼いである」と言われます。私こそが良い、まことの羊飼いであるとここで断言されます。そして、偽物の羊飼い、所有者でない、雇い人に過ぎない者は、狼が来ると逃げ出すと言われます。そして、狼は、羊たちを引きずり回し、追い散らすのであります。
 しかし、主イエスは、ご自分こそ、待たれた、唯一のまことの羊飼いであって、羊のために、命をも捨てる、差し出すとここでお答えになっておられます。そして、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じように、羊たちは、私を知っており、私も羊たちを知っており、ご自分の命を羊のために捨てるのであると約束されています。羊たちは、自分の声を聞き分け、従ってくるのだと言われるのです。
 私たちは、この「私こそが良い羊飼いである」という主のみ声を聞き分けねばなりません。その他のどのような声にも聞き従うべきではありません。たとえそれが、自分に生来与えられている誠実さというような賜物であっても、それによって、主にのみ聞き従い、そのお声を知ってついていくことが妨げられるのであれば、それに信頼してはならないのです。
 私は、キリストなしでやっていける、そのような声に私どもは決して従っていくべきではなく、私たちに命を得させ、しかも豊かに得させるとの声に、「私こそが良い羊飼いである」と十字架の死とご復活を通して言われる方の声のみに、聖書の声のみに私たちは従ってくるようにと、主は招いておられるのです。
 今日のペリコペー、聖書日課である福音記事の終わりのヨハネによる福音書第10章の16節では、主は、私には、この囲いにはいない別の羊たちがおり、その羊たちをも、私は導かねばならない、父のご意志によって導くことになっている。そして、彼らは一つの群れとなり、一人の羊飼いのもとへと成るであろうと預言しておられます。確かに、私たち日本人も、主の約束された通り、主の羊の囲いの中へと招かれて今、この私どもの飯田教会の群れへと、一人ひとり招かれ、この後、主の聖餐にも与ります。

 しかし、宗教改革記念500年のいまだなお、一つの教会、一人の「良き羊飼い」である主イエスのみ声を聞き分け、ついていく同じ思いの一つの群れであるかは、問われ続けねばならないのであります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2017年5月1日月曜日

「信じるトマス」(ヨハネによる福音書第20章24節~29節)


ヨハネによる福音書第2024-29節、2017430日(復活後第2主日礼拝―白―)、使徒言行録第236-47節、ペトロの手紙一第117-21節、讃美唱100(詩編第1001-5節)
  
説教「信じるトマス」(ヨハネによる福音書第2024節~29節)

今日は、復活後第2主日で、イースターから、3回目の主の日ですが、今日の記事、ヨハネ福音書第2024節から29節は、イースターの翌週の主の日に起こった弟子たちへの二度目の復活の主の顕現の記事ですので、古くから伝統的には、2回目の主日に読まれる個所であります。
最初の主のご復活になられた日、イースターの日に、閉ざされた家の中に集められていた時に、主は平和があなた方にと挨拶されて、弟子たちのところにやって来られましたが、そのとき、ディドモと呼ばれるトマスはそこにはいませんでした。主イエスの壮絶な十字架の死に恐れを抱き、絶望の底にあって、独りでいたのかもしれません。
ほかの10人の弟子たちは、自分たちは「主を見た」と告げましたが、トマスは容易には信じません。主の両手の傷跡を見、そこに指を入れるのでなければ、そしてまた、そのわき腹に手を入れてみなければ、自分は決して信じないと言い張るのです。
このトマスは、ラザロが死んだときに、主イエスがベタニアに行こうと言われたときに、何かを感じて、自分たちも一緒に行って死のうではないかと言ったことがあります。また、最後の晩餐の席では、主が、あなた方は私が行こうとしている道を知っていると言われたときに、自分はあなたが行こうとしている道は分かりません、それを教えてくださいと正直に尋ねた弟子であります。
そして、それに答えて、主は、私は道であり、真理であり、命であると言われたのであります。
私どもが、本当に恐れ、疑い、深い絶望の中に置かれているときには、復活の主を信じることなどできません。しかし、そのような困難を乗り越えることは、復活の主が自らお出で下さらなければできることではありません。
この、主のご復活から8日たった2回目の主のご復活を祝うべき主の日に、今度は、トマスも一緒に弟子たちとともにいました。教会の礼拝をしているところに、その主であられるご復活の主イエスもそのみ体で、お出でになられるのであります。
その日、同じように、閉ざされた家の中に、ご復活の主は、それを乗り越えられて、しかも、十字架の傷跡を保ったままで、その復活の体をもってやって来られる。
そして、再び、平和があなた方にあるようにと挨拶なさり、弟子たちの真ん中にお立ちになられます。しかし、この二度目の弟子たちへの、顕現は、トマスを目指してのものでありました。
そして、主は、私の手を見なさい、そして、指をその傷跡に持ってきて入れなさい、わき腹に手を入れなさいと、ご自分の体を示され、不信仰にならないで、信仰的になりなさいと教えられるのであります。
それを見て、トマスは、どうしたでしょうか。彼はご復活の体の主イエスをその眼で見るや、「あなたこそ私の主であり、私の神です」と信仰告白の言葉を向けるしかありませんでした。
この疑い深く、頑固であった、ある意味では弱い信仰の弟子であったトマスが、ここにあなたしか、私の主はおられず、私の神はおられませんと脱帽したのであります。
昔から、イースターの前夜に向けて洗礼を受ける者が一番多かったのです。そして、イースターの次の主の日であるこの日は、洗礼を思い起こす主日として重んじられてきました。
主の洗礼にあずかった者たちは、この日のトマスとともに、「あなたこそ、私の主、私の神」と信仰を告白して自分の洗礼を思い起こしたのであります。
トマスは、不信仰から、信じる者へと、ご復活の主のみ傷のお体を見せられ、平和があるようにと言われ、信じる者になるようにとのみ言葉によって、新しい弟子へと変えられていったのです。
私どもは、このような者でも、自分は洗礼を受けていると、この主の日、トマスとともに、主のご復活を心から祝うことができます。
自分が変えられ、復活の主とともに、その平和の裡に歩み者とされたことを、はありません。
主が、復活させられて、私どものもとに、平和があるようにと祝福されながら、入ってきてくださいます。もはやどのような恐れも、疑いも、戦いも、この主とともに乗り越えることができます。
もはや、トマスは、疑い深いトマスではなく、信じるトマスとされています。
私どもも、このトマスとともに、変えられて、洗礼に至らせていただいた復活の主イエスを、「わが主、わが神よ」と告白することができます。あなた以外には、私には主人はおらず、私の神はおられませんとはっきり告白することができます。
そして、この復活の主とともにある平和をのべ伝えるものと主イエスはならせてくださいます。

アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

2017年4月26日水曜日

「復活の主と出会う」(マタイによる福音書第28章1節~10節)

マタイによる福音書第281-10節、2017416日(復活祭聖餐礼拝―白―)、使徒言行録第1039-43節、コロサイの信徒への手紙第31-4節、讃美唱118/1(詩編第11814-24節)

説教「復活の主と出会う」(マタイによる福音書第28章1節~10節)

 私どもは、少数の者でありましたが、去る受苦日には、礼拝堂に集められて、マタイによる福音書から、主イエスの十字架上の言葉から、主のみ苦しみを共に思い起こしました。
 それは「わが神、わが神、どうしてあなたは、私をお見捨てになられたのですか」という父のみもとに召される直前午後3時頃に大声で叫ばれた、マタイによれば、主が十字架上で発せられた唯一のお言葉であり、祈りの言葉でありました。父の独り子であるみ子が、父によって見捨てられるということがどうして起こったのでしょうか。
 しかし、主イエスは、その時にも、父である神を、わが神、わが神と二度も呼ばれつつ、霊を父のみ手にゆだねられて、十字架の死に至るまで、父のみ旨に従い通されたのであります。 
 それを、遠くから見守っていたのが、マグダラのマリアと他のマリアたちでありました。そして、そのご遺体を、アリマタヤのヨセフが、引き取って新しい墓に納め、しかしその墓は大きな石で封印され、番兵たちが見張りとしておかれていたのであります。 
 主イエスが、十字架上でなくなり、墓に納められたのは、安息日が始まる前のこと、すなわち、金曜日の日没前のことでありました。そして、安息日は金曜日の日没から、土曜日の日没まで続きます。
 そして、今日、イースターの出来事は、もとの文を読みますと、「安息日の遅くに、それから一つ目の明け方が始まるときに」起こったと記されているのであります。これは、難解な書き方ですけれども、主イエスが何度も予告しておられた、十字架に付けられて三日後に、あるいは、三日目に起き上がらされたということを表しているのであります。
 マグダラのマリアと、もう一人のマリアは、この日早く起き出して、主イエスのご遺体のある墓を見に行くのであります。大きな石でふさがれており、封印されて、番兵たちの見張る墓へ、とにかく二人は出かけるのであります。
 ガリラヤから、主イエスに付き従ってきた女の弟子たちの先生イエスへの人間的な思慕から、二人は、ご遺体を見届けるために来たのであります。あるいは、それとも、既に、この二人は、主イエスが何度も予告していた、主がご復活になるという約束を信じてやって来ていたのでしょうか。それは、ありそうもありません。しかし、ともかく、二人は、墓のところまで、この日の明け方に来たのであります。
 すると、そのとき、み使いが天からくだり、その大きな石を動かし、その上に座ったのであります。それゆえに、大きな地震となり、番兵たちは恐れて死人のようになります。そのとき、み使いは、女たちに言います。「恐れることはない。あなたたちは、十字架に付けられたイエスを探していることを、私は承知しているが、その方はここにはおられない。死人の中から起き上がらさせられたのだ。
ここを見なさい。その方が横になっておられた場所である。あなた方は、彼の弟子たちに言いなさい。彼はあなたがたよりも先にガリラヤに行かれる。そこで、あなた方は彼に出会うことになると。確かに私はあなた方に言いました」と。
 二人は、恐れと大きな喜びをもって、墓から駆け出します。復活の出来事は、私どもに、恐れと喜びとを起こさせるものであります。ところが、その途上で、見よ、主イエスが二人を出迎えられるのであります。そして、「おはよう」と言われて、おなじみの挨拶で声をかけられた。
 二人は、思わず、そのみ足を抱き、ひれ伏し礼拝するのであります。そして、主イエスはそれを温かく受け止められる。11弟子たちよりも前に、起き上がらされたお方は、女の弟子であったマグダラのマリアたちにお姿を現わされるのであります。そして、み使いが告げたのとほぼ同じ使信を二人に託されます。「あなた方は恐れる必要はない。あなた方は出て行って、私の兄弟たちに伝えなさい。彼らがガリラヤへと出発するように。彼らはそこで、私に会うであろう」と。
 ペトロをはじめ、主の十字架におかかりになるときに、主を知らないと言い、主を見捨てて逃げてしまうことを主は前もって弟子たちに予告し、「私は羊飼いを撃ち、羊たちは散らされてしまう」と告げておられました。しかし、主イエスは、そのときに、ご自分は復活した後、彼らより先にガリラヤへ行くと約束しておられました。その使信を伝える務めを、マグダラのマリアたちに託されたのであります。

 そのとき、11人は逃げ出していましたが、再びどこかに集まっていたらしく、マグダラのマリアたちはそこに向かっておりました。そして、ご復活の主イエスにも最初に出会うという光栄をマリアたちは与えられ、その主イエスを通して、再びガリラヤに参集し、兄弟姉妹としての交わりを回復してくださるとの使信を弟子たちに伝えるのであります。死と罪と闇から、私たちを、解き放つために、主イエスがこの朝、死者の中から、父によって起き上がらされ、今も共に生きて、お治めになっておられることを共に祝いましょう。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2017年4月19日水曜日

「宮沢賢治童話全集 新装版 6 なめとこ山のくま」

―最近読んだ本からー
「宮沢賢治童話全集 新装版 6 なめとこ山のくま」
宮沢賢治
                発行 2016930日    
                発行者 岩崎弘明
                発行者 株式会社岩崎書店
                定価  2138円 
 宮沢賢治の「なめとこ山のくま」を読みなさいと、ある先輩牧師先生から薦められた。さっそく取り寄せてみたが、しばらくたってしまった。「なめとこ山のくま」は、岩崎書店発行の「全集の新装版の6」に納められている。
賢治が故郷の岩手県を中心に題材として残されている民話、伝説などから作った同系列の童話が他に8篇、載せられている。
宮沢賢治については、詳しく知らないが、晩年、日蓮宗の熱心な信徒であったと聞いている。しかし、一方では、キリスト教の影響も大きかったのではないかとも聞かされている。
若干37歳の若さで、1933年(昭和8年)に病気でなくなっている。日本には、今も各地に古くからの伝説や民話が残っている。「なめとこ山のくま」もそのような日本の地方、特に賢治が生まれ育った岩手の山奥に伝わる伝説から、賢治が作品としたもののようである。

「小十郎」が主人公とも言えるなめとこ山の猟師である。そして、むしろ、真の主人公は「なめとこ山のくま」たちである。小十郎は生きるために、熊を撃ち、その毛皮や内臓などを、安いお金で、町に下りていって売り、酒に変えたり、一家の生活の糧にせざるをえない。熊たちも、小十郎を憎んでいるわけではなく、一匹一匹と仲間を失いながらも、なめとこ山で共生しているのである。ある夜、小十郎は愛犬と森をめぐっているとき、母熊と小熊が向かいの谷の景色を眺めているのに出くわす。小十郎もまた、なめとこ山の熊たちを、この上なく愛していたのである。やがて、小十郎も、熊に襲われる日が来る。そのしかばねを、熊たちは真ん中にして、集まり、葬るかのように群がる。なきがらとなった小十郎の顔もどこか笑っているようであった。そのような自然と動物と人間が一体となって生きていた日本の昔の伝説から、作られた童話が、この全集の6巻に納められている。かなりの年齢である日本人には、だれでも懐かしくなる、そのような童話が9篇、集められている。方言も美しく、文学者賢治が聖霊に促されて、紡ぎ出した言葉の宝庫がここにあるのではないか。

2017年4月10日月曜日

「謙りの主イエスの都入り」(マタイによる福音書第21章1節~11節)

マタイによる福音書第211-11節、201749日(枝の主日礼拝―紫―)、ゼカリヤ書第99-10節、フィリピの信徒への手紙第26-11節、讃美唱22/2(詩編第2224-32節)

説教「謙りの主イエスの都入り」(マタイによる福音書第211節~11節)

 今日から、受難週、聖週間が始まりました。今朝の主の日は枝の主日と呼ばれます。待降節、アドベントの最初の日曜日にも、先ほど一緒にお読みしましたマタイによる福音書第21章1節から11節までが読まれます。それは、新しい一年の信仰生活を、まことの王、主イエスを、私どもの生活の中にお迎えする用意をするために、その記事を持って礼拝をし、歩み出すわけです。
 そして、レントの最後の日曜日に、同じこの聖書個所が与えられているのは、クリスマスで、主イエスがお生まれになり、地上で生活なさり、みわざとお働きをなさったのちに、時が来て、十字架に向かわれる。そして、都エルサレムで受難の1週間を、ここからお始めになる。そして、捕えられ、十字架に付けられ、最後まで、父なる神のご意志に従って、苦しまれ、ついに死なれて墓に納められるが、三日後に、死人の中から、旧約聖書によって預言されていたとおりに、起き上がらされるに至るのであります。
 その主イエスの地上での歩みを、今朝の記事の中に、私どもはその全体の姿を読み取ることができるのであります。
 今日の出来事とその意味をしばらくご一緒に考えていきたいと思います。
 先ほどお読みしましたように、主イエスと大群衆は、ホサナ、ホサナと歓呼の声をあげながら、エルサレムの都へと入って行きました。
 そのとき、迎えたエルサレムの人たちはどうであったか。彼らは、この人は一体だれなのかと戸惑い、それどころは、揺り動かされたというのであります。
 これは、主イエスがベツレヘムでお生まれになったときに、東の方から博士たちがやって来て、ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにいますかと問うたとき、ヘロデ大王と全エルサレムは、うろたえたと書いてあるのと同じ言葉が使われています。
 彼らは、地震を受けたようになったというのです。歓迎するどころか、心騒ぐばかりで、このまことの王を拒んだのであります。それに対して、ガリラヤから、過ぎ越しの祭りで一緒になってエルサレムに巡礼し、主イエスと共に都入りをする群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と賛美しながら応えている。
 主イエスがだれなのかを、巡っては、人間は中立であることはないし、そうはできないのであります。神の民であるはずの都の民、シオンの娘は、主イエス、神の子を拒み、ガリラヤからの群衆は、主イエスを喜び、歓呼の声をあげつつ入城しているのであります。
 今日のお出でになっておられるお方を、自分のまことの王として受け入れるのか、それとも、今の自分には必要ない、あるいは、無益だと拒むのかが、私ども一人一人に問われてくる出来事であります。
 その出来事を、今日のテキストのみ言葉に従って、丁寧に見ていきましょう。
主イエスは、エリコから、オリーブ山へと、ベトファゲへと、エルサレムに向かって近づかれたとき、弟子の二人を遣わして言われます。向かいの村へと行きなさい、すると、ろばがつながれているのを見出す。それをほどいて、引いてきなさい。もしだれかが何か言ったら、その主がそれを必要としているとあられます応えなさい、そうすればすぐに渡してくれる。そして、彼らは、出て行ってそのとおりにしたと記されています。
 主イエスが命じられるとおりにすることが、私ども主に従う者がなすべき生き方なのであります。そして、二人は、雌ろばとその子ろばを引いてくる。
 これによって、マタイは次の預言者の言葉が満たされることになったと言います。すなわち、エルサレムの娘よ、あなたの王があなたのところにお出でになる。彼は柔和な方で、雌ろばと荷を負う言葉に乗って。
エルサレムの娘、神の民のところに、主はお出でになる。そして、それは今では私たちのところへであります。この方は柔和な方であり、重荷を、私どものために担ってくださるお方であって、王でありながら、私どもの罪や重荷を担ってくださる。そういうふうにして、平和をもたらされる王である。
 柔和なお方、へりくだられて、十字架の死に至るまで父なる神のご意志に従われ、苦しまれる、仕えるしもべであられる王である。 力によって戦争をする王ではなく、ただ戦争がないというだけの平和をもたらされる王でもない。積極的に、仕える事を通してこそ、まことの幸いが得られるのではないでしょうか。自分の才能や力によって、人を支配する。そこからは、真の幸いも救いも、私どもは得ることはできないのであります。 そして、連れて来た雌ろばと子ろばの上に、二人は自分たちの上着を敷くと主イエスはそれにお乗りになります。そして、大群衆は、上着を主の進まれる前に広げたり、野から枝を切ってきて敷く。そして、ホサナ、ダビデの子に!主のみ名によってこられる方に祝福あれ、ホサナ、いと高きところに、と歓呼しながら都に入っていく。ホサナとは今助けて下さい、あるいは、万歳といった喜びの叫び声であります。これによって、詩編118編の、人々が無益だといって捨てた石が隅の親石になったとある預言が満たされることになったのであります。主はそのようなまことの王として、そして、十字架に付かれる王として、今日私どものところにお出でになられている。その主を仰ぎ見たいのであります。アーメン。