2026年8月16日日曜日

「祈りの家」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第12主日礼拝(2026年8月16日)(緑)

イザヤ書56:1&6~8(旧)   ローマ書11:1~2&29~32(新) 

マタイによる福音書15:21~28(新)


 本日の福音書には、ツロ、シドンといった地名が出てきます。それらの場所は、ユダヤ教は別の神を信じる、異邦の地であったことが印象付けられます。そしてその場所でカナンの女と呼ばれる人物がイエス様の前に現れます。


 イエス様が活動しておられた頃、イスラエルを支配していたローマ帝国は、政策として「ローマの平和」を打ち出していきます。圧倒的軍事力によってローマの法や秩序が地中海沿岸諸国に行きわたり、人びとが安全に暮らせた黄金期です。ローマは、宗教や思想においては寛容体制を持ち、身分制度はあるものの金を払ってでもローマ人になるものには自由を与えました。


 しかし、見方を変えれば制圧と搾取のうえに成り立っていたとも言え、全ての人が幸せだったわけではありません。表向きは平和でも、辺境や属州では異民族との激しい小競り合いや反乱が絶えず発生していたようです。


 異民族との積極的な交流を嫌うユダヤ人は、他の属州に比べても強くローマに反発し続けていたといえるでしょう。そのような中、イエス様はイスラエルを離れて、異邦の地に行く、また、その異邦の地において、イエス様に救いを求める人がいるのです。


 ユダヤの民が、他の民族や異邦の民と交わりを持ちたくない理由として、排他性が言われますが、その排他性は彼らに与えられた信仰の独自性から生まれてきたものです。


 ユダヤの人々は自らを「神に選ばれた民族」と信じ、誇りを持っていたことは旧約聖書にしっかりと記されています。イスラエルは地政学的に見て、紛争に巻き込まれやすい場所です。歴代の王たちはしばしば政治的判断を誤り、信仰がただのお飾りとなり、戦争がおきます。大国との戦争に負けて神殿を破壊されたり国そのものを失いかけるような目に遭うと、悔い改めて信仰を取り戻し、その出来事を聖書に刻んで後世に伝えました。


 さらに、神に愛される自分達はどう生きることが望ましいのか、それを事細かに記したものが律法です。礼拝の方法から日常の食事まで、あらゆる分野にわたって決まりが定められました。


 律法を守ることが民族の誇りでもありましたから、律法を守らず、信仰を共にできない他の民族に対しては当然態度が冷たくなります。仕事以外の付き合いはほとんどせず、食事を共にすることもまずありませんでした。


 ですから「娘が悪霊に苦しめられているので癒してください」といって追ってくるカナンの女に対し、イエス様は「私はイスラエルの家のもと以外は遣わされてといない」と突き放しますが、それはユダヤ人としては普通のことであり、カナンの女の方もこうなることは予想していたはずです

 もちろん、この女性がユダヤ人ならば、イエス様は即座に癒しの力を奮ってくださったことでしょう。しかし、イエス様はあくまで神の子です。頼ってきた人を何でもあり、とばかりに癒すことはなさらなかったのです。


 例えば、どんな神様でも良いから、病気を治してくれるなら、お賽銭を捧げて祈ろう、そんなふうに考えている人は世の中にたくさんいます。それはご利益を求めているだけであって、神様と人格的にふれあい、助けを求める態度とは違います。ですから、神様をまるで恵みの自動販売機のように扱う人に対して、OKとはなりません。本当の愛の交わりはそんなに安っぽいものではないのです。


 ただイエス様は、弟子達が、救いを求めるこのカナンの女を邪見に扱う様子にも、心を痛めておられました。この女性があくまでご利益だけを求めているなら拒否しなければならない。そう心に決めて、選んだお言葉は「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」でした。


 「子どもたち」とはイスラエルを表しています。本来ユダヤ人に用意されている恵みを、異邦人には与えられない、と言う意味です。ただ、女性自身を「その辺の野良犬」ではなく「愛らしい飼い犬である小犬」に例えられた選ばれたところに隠しきれない優しさが溢れています。


 イエス様は、信仰というものは、国の宗教として捉えることも大事だが、まず一人の人として神様と繋がることが大切だと教えようとなさいました。そしてこの女性が見事にその想いに応えてみせた時、娘は癒されます。


 そんなイエス様の思いは今も全く変わりません。この世にキリストの体として存在し、信仰に生きる私たちのキリスト教会でも同じことなのです。


 私たちが個人の信仰を深め、家族や友人に伝道しようとする時、周囲の人々はそれを警戒することでしょう。宗教には程々の距離感で、と思う人々が大半だからです。が、その一方で、本当に救いを求める人は、自然と神様に引き寄せられます。私たちにはその人と神様と間を取り持ちたい、と言う気持ちも芽生えるのです。


 現代では、教会に「祈り」が無くなったと言われることもあります。長年教会に通う信徒さんでも、人前で祈ることに躊躇する人も増えてきて「では主の祈りを持って」とお茶を濁すように主の祈りを用いることもあります。しかし、私たちは2000年の時を超えて、異邦人でありながらキリストの名によって祈ることが許されたものであり、カナンの女性が娘のためにあげた叫びの祈りに倣うものです。小犬のような拙い祈りでも、番犬のような、勇ましき祈りであっても、神様への祈りが私たちを救ってくだいます。そして教会はその拠点なのです。


 神様との会話である祈りを大事にし、この教会が祈りの家となるように、心して参りましょう。



今年もプルメリアが咲きました
園庭に面した教会のベランダが定位置です
残念ながら暑すぎてなかなか綺麗に咲き揃いません
暦の上では立秋ですが
南国の花がばててしまうほどの高温の毎日が続いています
みなさんどうぞ熱中症にお気をつけて

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