ヨハネによる福音書第14章1節-14節、2017年5月14日(復活後第4主日礼拝―白―)、使徒言行録第17章1節-15節、ペトロの手紙一第2章4節-10節、讃美唱146(詩編第146編1節-10節)
説教「場所を用意しに行かれるみ子」(ヨハネ福音書第14章1節~14節)
先週は「主の憐みの日」の礼拝として、ヨハネ福音書第10章1節から16節の」「私が良き羊飼い」との主のみ言葉を聞きました。今年は主たる福音はマタイ福音書ですが、私たちは、残すところ2回の復活後の主日も、ヨハネ福音書から、福音の記事が与えられています。しかも、今朝と次の主の日にはいずれも、最後の晩餐の記事の中から、今日の個所とそれに続く個所が読まれます。
復活節を祝うこの時期に、今日の個所が選ばれているのはなぜなのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
主イエスは、ここで、あなた方の心を騒がせないがよいと語り始めておられます。もう数時間後には、裏切ったユダが、エルサレム当局の者たちと共に、主を捕えに来る。そして、主の命がこの世から絶たれる時が迫っている。11弟子たちは、本能的にそのことを直感していたに違いありません。その時に主は、この言葉を語られる。そして、続けて、「神を信じゆだねなさい、そして私をも信じなさい」と言われます。弟子たちは、自分の生涯を傾けてきた大きな支えを失おうとしている。自分のすべてを賭けてきた主イエスがいなくなることを、肌で感じ取っている恐怖と不安のどん底にあったともいえる弟子たちに、おののくことはない、神にゆだねなさい、そして、私へと信じゆだねればいいと言われます。
私たちも、しばしば、それに近い試練や危機にぶつかり、不安に打ちのめされそうになります。しかし、この主の言葉によって、それを乗り越えることができるのであります。
主は続けて、不思議な言葉をここに残されています。「私は、あなた方のために、父の家に場所を用意しに行く」と言われている。私の習った宣教師の先生は、教会学校の分級で、中学クラスを一緒に教えるときに、今日の個所をある日のテキストとして選ばれ、このような言葉を語った人は、イエス様の他にはだれもいませんと語られたのを、今も鮮明に覚えています。
主は、父の家には多くの住まいがある。そうでなければ、あなた方のために場所を用意しに行くといっただろうか。そして、私は場所を用意したら、また、やって来る。そして、あなた方をそこへ連れて行くであろう。そうして、私にいるところに、あなた方もいることになると言われます。
復活節を祝っているこの日に、今日のみ言葉が与えられているのは、主がこの後、苦しめられ、十字架の死を遂げ、三日後によみがえり、天の父の父の右の座にお座りになることの意味を、今日の個所が表しているからではないでしょうか。
主は、続けて、あなた方は、私が行くところ、その道を知っていると語られます。すると、あのトマスが、「主よ、あなたが行くところ、その道を私たちは知りません。どうして、知ることができましょうか」と質問するのです。
主を慕って、一心についてきたトマスの、愚直といえば愚直な問いかけであったかもしれません。しかし、主はそれを無視して、答えられないようなお方ではありません。この問いかけによって、私たちに最も必要な主の言葉の一つが残されることになったとも言えましょう。主は、「私が、道であり、真理であり、命である。私を通らないでは、だれも父のもとにやって来る者はいない」と言われたのであります。私があなた方に道を教えようというのではないのです。私が道であると言われます。父なる神のみことに行くには、子であるキリストを通してでなければ、到達することはありえないと言われます。
他にも、道はあるのではないかと考えがちな私どもに、まことと命に通じる道は、私の他にないと言われます。それが、分かれば、私どもは、もはや、どのような試練にあっても、心騒がすことはなくなるのではないでしょうか。
さらに、今度は、フィリポが、「主よ、神を見せてください。そうすれば、私どもは満足します」と懇願するのであります。
主は、フィリポよ、あなたはこんなに長く私と一緒にいるのに、父がわからないのか。私を知った者は、父をも知っているのである。今から、あなた方は父を知っている、否、父を見ているのであると言われます。
神を見た者は、死なねばならないと、旧約聖書では信じられていました。
しかし、主はここで、私を知る者は、父をも知っており、父を見たのであるとまで言われるのであります。そして、私は、父の内におり、父も、私の内におられる。私が語っている言葉は、父が私においてなさっているみ業なのであると言われます。そして、そのことを信じる者は、私のしている業を行い、さらには、私よりももっと大いなることを行うことになると、弟子たちに、そして、信じる私どもに約束なさっておられるのです。今の世界中に広がっている教会の働きの預言であります。
そして、その働きのためにも、主は、何事でも、私の名において要求しなさい、そうすれば、私がそれを行うであろうと、主のみ名による祈りの必要性を教えておられます。主を、そしてその父なる神を信じるということは、主イエスの名において、祈り求めるということであります。主の命の唯一の道に生かされ、常に心騒がされないで、宣教の働きへと励む者とされたいものです。
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