聖餐式・待降節第1主日礼拝(2024年12月1日)(紫)
エレミヤ書 33章14-16節(1241)
Ⅰテサロニケ 3章9-13節(376)
ルカによる福音書 21章25-36節(152)
信仰生活をしていると、時々「健康であるのが当たり前」という錯覚に陥ることがあります。神様に守られているなら健康でいられるはず、という思い込みです。しかし誰でも病気や怪我を経験することはありますし、大けがや死に至るような大病に罹ることもあります。
聖書は人間がそのような弱くはかない肉体を持っていることを何度も強調しています。キリスト教信仰は病、死、そして、この世の終わりに至るまで聖書から学ぶことができます。本日ご一緒に読みましたルカ福音書にも、今私たちの命には限りがあり、今生きているこの世にも終わりの時が来るのだ、とハッキリと記されています。
20節には「エルサレムの滅亡を予告する」という不吉なタイトルが記されています。そのような混乱の中にあって、信仰に生きる私たちはどうあるべきかが、はっきり示されています。さらには28節には「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい」と書かれています。
この「身を起こして頭を上げなさい」とのイエス様の言葉はとても重要です。これは「しっかりしなさい。言い訳に頭がぐるぐる回り、そればかりに終始しないよう、現実を見つめるために顔を上げなさい」と言われているのと同じなのです。
私たちに身近な例えで言いますと、家族や職場から「毎週日曜日に礼拝に行かなくてもいいじゃない」とか「そんなにたくさん献金にしなくても」などと言われてしまうと、悩んだり顔色を伺った挙句、態度を曲げてしまうことがあります。そして「あの時は仕方なかった」とか「反発を買わないよう折れたふりをした」とか、言い訳は状況と人の数だけあります。こういうことが積み重なって教会が悪い、指導者が悪い、社会が悪いと開き直った態度に出てしまうことがあります。
そんな私たちにグサリとくるのが、先ほど読んでいただいたエレミヤ書です。イエス様がお生まれになる600年も前に、エレミヤという預言者が語った預言を弟子のバルクがまとめたものです。この当時ユダヤの国は外国との戦いに敗れて占領され、滅びる、間際であり、エレミヤはギリギリまで「神様に立ち帰れ」と警告をし続けました。しかしほとんどの権力者がエレミヤの言葉を信じず、邪魔な存在として命を狙われ、死にそうになったのも一度や2度ではありませんでした。
ところがユダヤの国がもはや滅亡から逃れられない絶望的な状況に陥った時、彼は一転して希望を語り始めます。「神様は必ず救ってくださる、希望を捨てずに信仰を持ち続けなさい」と呼びかけたのです。
誰もが「もう終わりだ」と嘆き悲しむ最悪の時に、「神様は試練と裁きで終わる方ではない、私たちを苦しみの中へ放っておく方ではない。その先には、逃れの道と希望がある」と命も惜しまず叫び続けたのです。本当に、心の底から信じていたからこそ、エレミヤの言葉は人々の心をとらえました。
エレミヤはこの後、悲惨な状況の中で命を落とし、自分が預言したこの世の救いを見ることはできませんでしたが、最後まで「身を起こして頭をあげ」神様の言葉を語り続けたのです。哀しみの預言者と呼ばれているエレミヤの姿は、見る角度によっては非常に雄々しく、イエス様のお姿にも重なります。
さて、本日の福音書に戻りましょう。この聖書箇所では、イエス様が滅亡の向こうに神の国があることを信じるよう弟子たちに話されています。何やら抽象的でわからないなあ、と思われるかもしれませんが、この時点でイエス様の弟子たちも正確に理解できた訳ではなかったようです。ご自分がお話になることがそのまま理解されない事はもちろんイエス様もわかっておられました。それでも話すべきことを力強く語られ、必ず理解される日が来ると信じてお話しされたのです。
私たちは自分のしたことがすぐに評価されることを求めがちです。そして批判や批評を受けると嘆いたり怒ったり、やる気を失くしたり、逆恨みの気持ちさえ抱きます。そのような弱さに振りまわされるとき、イエス様の言葉である「身を起こして頭をあげなさい」は、あなたは主にあって堂々としていなさい。というクリスチャンとしての生き方の勧めなのです。
自分も含め、あらゆる人々の批判も批評もおそれないこと、どんな状況にあったとしても、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。とおしゃってくださっているのです。
この「あなたがたの救い」の、「救い」という言葉には「解放する」「自由になる」という意味があります。ですから信仰生活において、人の言葉や評価に振り回される必要はないのです。人がなんと言おうと、神様が与えてくださったキリスト教信仰の道を大切にして、自分という存在を育てていく、それこそがイエス様が望まれることなのです。キリストの召し出しによって、私たちはどのようなピンチにあっても、心と信仰は常に自由な者、救いに預かる者にすでになっているのです。
最後になりますが、29節には「いちじくの木」のたとえというタイトルがついています。いちじくの木の変化を見て夏が近いことを感じるように、「宣教」「伝道」に関しても、世の中の変化や風潮に気づいた上で自分の役割を果たしていく、その判断もキリスト者各自に許されたことであり、あなたが信仰に基づいてどのような方法を選択しようと、主の言葉は滅びないとおしゃって下さっているのです。
世の中が終わりそうなニュースは日々耳に飛び込んできます。しかしそれに振り回されず、キリスト者としての信仰に生きる生き方と心の強さをイエス様に求め続けましょう。その生き方を妨害する人や出来事に遭遇しても、常に堂々としていられる心を与えてくださる方に信頼してまいりましょう。
ほぼ毎月、「みんなのトピックス」という
飯田教会の広報誌を発行しています
「ほぼ毎月」と言うのは
教会の仕事や会議の多い少ない
牧師の体調に左右されてしまって
毎月同じ週に出すことが難しく
不定期な感は否めないのです。
(いやはや、申し訳ありません)
A4裏表で、説教の要約と教会や
牧師の近況報告みたいなものを載せています。
このブログに載せたものとかぶっているので
今更と言う感じではありますが
12月号をデーター化して掲載しておきます。
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