2024年12月8日日曜日

「洗礼者ヨハネのメッセージ」(日曜日のお話の要約)

待降節第2主日礼拝(2024年12月8日)(紫)

マラキ書 3章1-4節(1499) 

フィリピ 1章3-11節(361)

ルカによる福音書 3章1-16節(105)


 新約聖書を一番初めから読み始めようとした方は、いきなりのカタカナの名前の羅列にうんざりしたと思います。これは「イエス・キリストの系図」と言われるもので、旧約聖書に登場する人々の名前です。


 聖書全体がわかってくると、とても興味深いものなのです。この人物名は、聖書が神話や御伽噺ではなく、歴史的な出来事だとはっきりさせるために書かれている、と理解してください。


 本日読みました福音書も「皇帝ティベリウスの治世の第15年」と記されており、初代皇帝アウグストウスから数えて3代目の実在の人物です。しかし歴史的には「誰だそれ」と言われる程度です。

 

 十字架刑に重要な役割を果たしたポンティオ・ピラトも中途半端な政治力しかありませんでした。イスラエルの国自体も、ローマ帝国の支配のもとで王の権限は分割されて、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、と一人一人は小物な感じです。


 王と同じように政治的な影響力を持つ大祭司は、当時はカイアファが就任していましたが、実質的にはそのしゅうとのアンナスの方が引退大祭司として強い影響力を持っていて、宗教業界のいやらしい人間関係を感じます。


 そのようなところに、やっとイエス様登場、と思ったら洗礼者ヨハネが先に出てきます。大人になったイエス様が登場するまでに、さして有名ではない人物についてあれこれ書かれているので、面倒臭いと思われるかもしれません。


 しかしイエス様は天国からパッと来てパッと帰ったのではなく、2000年前のユダヤの国で人生を送り、苦しみの多い日々を歩まれたのですから、イエス様の周りには、ドラマ的に言えば悪役と呼べるような人物も沢山出てきます。


 私たちは「聖書にはイエス様とイエス様にまつわる良い話がいっぱい書いてある」と思い込む傾向があります。せっかく自分の聖書を持っていて、礼拝に通う時間があっても、聖書全体には目もくれず、キリスト教についてもイエス様だけ信じていればいいんだ、と言う考え方に留まってしまえば、信仰は薄っぺらくなって、応用が効かず、いざという時役に立たない可能性があります。


 ただこれは、今の私たちに始まったことではなく、旧約聖書を読み込んでいるはずのユダヤの民にも起きたことでした。イエス様が誕生された時代とは、ほとんどのユダヤ国民が聖書を学び、自分で読むことも許されていて、毎週礼拝所に出席し、年に一度はエルサレム神殿に巡礼することをよしとしていました。


 しかし聖書に刻まれた神様の思いを徹底的に守るものがいない時代でした。そのような時代に神の召し出しによって、イエス様の先触れとして洗礼者ヨハネが登場するのです。ヨハネはイエス様と同様に聖霊の力によって生まれ、形骸化したユダヤ教を嫌って荒れ野で御言葉に従う厳しい毎日を送っており、その暮らしの中で神様の言葉を受け取ります。御言葉は神の言葉に徹して生きようとする洗礼者ヨハネに染み込みました。


 ヨハネは旧約聖書の預言者同様に、神様のメッセージを取り継ぎました。ユダヤ教が表面的になっていた時代ですから、その内容はかつての預言者たちのように、厳しいものにならざるを得ませんでした。


 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山や丘はみな低くされる。」人間が浅はかな考えで良かれと思った業は、すべて神の御心によって元通りにされるという意味なのだそうです。築き上げた国も財産も、御心に敵わなければすべて取り払われるというのです。


 これは地上の繁栄だけが全てと考える人々には恐ろしいメッセージですが、今の自分の信仰生活を省みて悔い改める者は皆、神の救いを仰ぎ見ることができる、つまり神様によって救われる、という希望のメッセージでもあったのです。


 「悔い改め」といえば何か大変なことのように思われるかもしれませんが、ヨハネは普通の人々には普通のわかりやすい言葉を選んで語りました。それは「分けてやりなさい」「権力を傘にきて弱いものをいじめるな」「必要以上のものを欲しがるな」といった言葉でした。それぞれが置かれた立場で神様従いなさい、そう意識を改革しようとしました。これらは、イエス様が公に宣教を始める前に、神様が望んでおられることを一人一人に考えてもらうための準備段階だったのです。


 真剣に神様に向かって悔い改めをせず、一方的に救いや赦しを求め、それが叶えられるのが「愛」だと思い込んでしまうと「神様がいるなら、なんでこんなことが起こるのか」と言う愚痴ばかりが出るようになります。こんな独りよがりで薄っぺらい愛は、簡単に失望に繋がり、人を滅びの道に導くことさえあるのです。


 ですから、聖書を読む時、イエス様の言動だけを拾い読みするのではなく、イエス様を取り巻く人々や、洗礼者ヨハネの働きも決して無視をしないようにいたしましょう。そうすることで、イエス様の告げる悔い改めのメッセージをもっともっと深く捉えることができるようになります。


 ヨハネが「私より優れた方が来られる」と断言して指し示した救い主イエス・キリストを共に知って参りましょう。ヨハネのように、キリストの功績を告げ知らせる一人一人に変えられていくなら、私たちの告げ知らせる神の国は決して遠くないのです。


寒くなったなあ、と思っていましたら

あっという間に南アルプスが真っ白になりました


教会から徒歩で数分の場所に

旧・飯田市測候所という施設があり

時々散歩に行きます

とても見晴らしの良い場所なので

ここから南アルプスを撮影してみました





ここは飯田地域の気象観測の拠点として

2002年まで使用されていたそうです

レトロでなかなか良い感じの建物です

ホームページから写真を拝借

https://msnav.com/nav/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%B8%82%E6%97%A7%E9%A3%AF%E7%94%B0%E6%B8%AC%E5%80%99%E6%89%80/



春は桜と雪を被った南アルプスも見ることができます

寒くなったばかりだというのに

この眺めが待ち遠しいです



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