2024年11月24日日曜日

「キリストとピラト」(日曜のお話の要約)

永遠の王キリスト礼拝(2024年11月24日)(緑)

ダニエル書 7章9-14節(1392) 

ヨハネの黙示録 1章4-8節(452)

ヨハネによる福音書 18章28-37節(205)


 本日の礼拝は「永遠の王キリスト礼拝」という名称です。以前は「聖霊降臨後最終主日」と呼ばれていた礼拝です。「王」という言葉は、日本に暮らす私たちにとってはあまり馴染みがありませんが、ヨーロッパでは、王座を巡って親族同士が血を流し合ったり、民衆がクーデターを起こして王族をギロチンに送ったり、と言った凄まじい歴史がたくさんあります。「良い王様が末長く国を治め、みんなが幸せになりました」というのは御伽噺の中にしかないようにも思えます。


 しかし、イエス様は「末長く」どころか「永遠の王」です。この方をイメージするとき、対極にある人物のことを考えてみるのが良いと思うのです。本日はキリストと相対する「ピラト」のことを知り、信仰の歩みを深めてまいりましょう。


 私たちは毎週のように使徒信条で「ポンティオ・ピラトのもとで十字架に付けられ」と信仰告白していますから、イエス様を十字架につけた大悪党と捉えている方もおられるでしょう。しかしイエス様の死刑判決の場面を改めて読んでみますと、「ピラト」は単純な悪役ではないようにも思えます。今日はヨハネ福音書からピラトとイエス様のやりとりを読み、そこに込められたメッセージを受け取りましょう。


 まず、最後の晩餐の後、ユダヤ人たちはゲツセマネで祈っていたイエス様を捉え、大祭司の屋敷に連れて行きます。そこでイエス様の言動が死刑に値する、という証拠固めを行おうとしたのです。しかしこれは既に仕組まれていたことで、その場にはイエス様をおとしいれるための偽の証言者が用意されていました。


 この当時、イエス様の民衆に与える影響が非常に大きく、祭司長をはじめとしてイスラエルの政治を預かる人々は、イエス様をリーダーとして反乱が起きることを恐れていました。祭司たちは自分の立場を守るためにも、事が大きくなる前にイエス様を始末しようと企んだのです。そして、イエス様を慕う民衆を黙らせるためにも、ローマからイスラエルを統治するために送り込まれた総督の「ピラト」からお墨付きを得て、堂々とイエス様を死刑にする必要があった、というわけです。


 そのピラトはイエス様が死刑になるほどの罪があるとは考えられなかったため、恩赦を使ってイエス様を救おうとしました。「重罪人である強盗のバラバとイエスのどちらを釈放するか?」とユダヤ人たちに問いかけたのです。すると彼らはピラトの予想に反して「バラバを釈放しイエスを死刑にしろ」と叫びます。


 そこで「ピラト」は、むち打ちの刑で勘弁し、救おうとします。そしてむち打ちで傷ついたイエス様に茨の冠を被せ、人々の前に連れて来て、これで終わりにするように命じるのですが、人々は全く引き下がりません。


 ルカ福音書23章には、ピラトはガリラヤの領主であるヘロデがエルサレムに滞在していることを聞きつけ、ヘロデに判断させようとしたことが記されています。しかしヘロデはイエス様を散々侮辱した挙句、ピラトの元に送り返したのです。


 ピラトは、最後には、イエス様に「神の国から来たのではない」「神の子ではない」と言わせることで救おうとしました。しかしこの極限状態でも威厳を失わないイエス様と向き合った時、この方の言葉と態度にすっかり圧倒されてしまいます。


 なんとかしてこの人を釈放しようと考えたものの、ユダヤ人たちから「イエスは自分のことを王様と言っているのに、それを見逃すならピラトも共犯だ、ピラトも皇帝に対する反逆者だ」と叫ばれます。これにはピラトも本気で怯え、イエス様を十字架に掛けるように引き渡したのです。ピラトのせめてもの抵抗は罪状書きを「ユダヤの王を自称した」ではなく「ユダヤ人の王」としたことでした。


 考古学が発展した今も、ピラトに関して信憑性のある歴史的な記録はあまり見つかっていないようです。伝説の中には、ピラトが後に悔い改めてキリスト教徒になった、という話もあります。ただ、ある研究者は、それはイエス様を死刑にした責任を、ヨーロッパ人ではなく、ユダヤ人になすりつけることで、ユダヤ人迫害を正当化しようとした表れだ、という皮肉な解釈をしています。


 そのような伝承はさておき、ここで私たちも考えるのです。ピラトはイエス様の無実を確信し、さらにはイエス様に向かって「真理とは何か」と問いかけ、答えをいただくチャンスがあったにもかかわらず、彼はそれを無駄にしてしまった、ということです。この一瞬は神様が用意してくださった2度とない救いの時なのだと受け止めなければ、イエス様を「我が主、我が神」とも思えなければ「永遠の王」とも思うことも決してできないのです。


 信仰というものは、いつでも挽回できる、取り戻せる、と思われるかもしれません。結果論として、そういうことももちろんあります。しかしそれを言い訳に甘えた信仰生活を送るなら、いつでも信仰を捨てられるという意識につながります。あなたの目の前に永遠の王として君臨してくださるキリストに対して、失礼なことをしていると気づかない、そのような状態が続くなら、神様が助けの手を差し伸べてくださることに気づかないままです。結果として弱くて薄い、力の出ない信仰生活を続けることになるのです。


 本日は「ピラト」を通して、永遠の王キリストに想いを馳せました。待降節を前にして、キリストが今私たちの目に見えないのは、天国におられるからなのだ、と確信し、言葉は悪いですが、迫害に耐える執念深い信仰を養って参りましょう。




ほんの数週間前まで暑い暑いと言っていた毎日が信じられないほど

早朝は冷え込むようになりました

南アルプスの山々もあっという間に雪をかぶって

真っ白になりました


礼拝堂のリノベーション工事の写真を撮ろうと

スマートフォンを構えると

真っ青な空がいかにも寒そうです


一次工事で園舎が完成し

二次工事として職員室棟を建設します

それと同時進行で礼拝堂のリノベーションが進んでいきます

旧園舎から切り離すために壊された壁に

ブルーシートが貼られた今の礼拝堂を見ていると

本当に綺麗になるのかとヒヤヒヤするほどです


予算不足のため当初のイメージとは仕上がりが違うところも出て来ますが

それは御心と受け止めて参ります

私たちの愛する礼拝堂で再び礼拝ができる春が待ち遠しいです




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