2021年3月30日火曜日

主の晩餐(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2021年3月28日)

イザヤ書 50章4-5節 フィリピの信徒への手紙 2章5-8節 

マルコによる福音書14章22-26節


 イエス様が十字架にかかられる前の夜、弟子たちと食事をした場面は「最後の晩餐」と呼ばれ、たくさんの画家が描いています。なかでも本日の週報の表紙に掲載したレオナルド・ダ・ビンチの作品が一番有名でしょう。

 この晩餐は、マルコによる福音書では「過越の食事」と書かれています。神様がモーセを通してユダヤ人をエジプトの奴隷生活から解放してくださったことを記念する食事で、通常は家族や親戚の単位で行わましたが、この時はイエス様が12弟子を集められ、自ら家長の役を務められました。

 しかし一同が席に着き食事を始めた時、イエス様は驚きの発言をなさいます。「あなた方の一人で、私と一緒に食事をしている者が私を裏切ろうとしている」と言われたのです。私たちは「ああ、ユダのことね」と思いますが、何も知らない他の弟子たちは驚き、心を痛め、代わる代わる「私じゃないですよね」と確認し始めます。彼らは何故、そんなことを確認する必要があったのでしょうか。


 弟子たちは、この3年半、イエス様と共に神様の教えを正しく人々に伝え、懸命に宣教活動を行いました。失敗して叱られることもありましたが、もともと彼らは素朴で純粋な信仰を持っていたのです。しかしイエス様が数々の奇跡を行い、ファリサイ人たちを論破して多くの人々から支持されるお姿を見ているうちに、弟子たちの中に野心が生まれて来ます。イエス様に新しい王様になっていただき、自分たちは家臣として出世したい。そのような思いが弟子たちの言動の端々に伺えるようになっていきました。弟子たちにとって、イエス様がどんな思いを持って日々過ごしておられるかは次第にどうでも良くなって行ったのです。


 おさらいのようになりますが、イエス様の時代のイスラエルは、圧倒的な力を持つローマ帝国に支配されていました。とは言えユダヤ教の神殿は健在で、宗教の自由もある程度与えられていました。多くの人々はイスラエルが独立国に戻ることをほとんど諦め、ローマに支配されながら信仰生活を続ける方法や、民族を保つ方法などを考え、妥協していきました。

 その一方で、ユダヤ民族の独立を望む集団も存在しました。イエス様の弟子の多くはガリラヤ地方出身ですが、この土地はもともと血の気の多い人が多く、ガリラヤといえば、ローマやヘロデ王への反乱が起きる不穏な地域になっていたようです。ですからイエス様の弟子たちも、イエス様を指導者にして戦いを起こし、自由を勝ち取る考え方に抵抗がなかったのでしょう。

 会計係りのイスカリオテのユダはガリラヤ出身ではありませんが、ガリラヤ出身の弟子たちと同様、イエス様がイスラエルの新しい王様になると信じて来たはずです。それなのにこのところイエス様は、革命どころかご自分が十字架で死ぬことばかりを強調されます。ユダは「ローマを倒さないイエス様は救い主ではない」と思ったのでしょうか。もはやこの先生には用はない、権力者たちがイエスの命を狙っているなら銀貨30枚で売ってしまおう、と考えたのかもしれません。

 マタイ福音書27章には、イエス様が逮捕された後、ユダは自らの行いを悔いて、祭司長たちから受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺したと記されています。なんとも悲しい結末です。

 ほかの弟子たちは流石にユダのようなことを考えていたわけではありませんが、イエス様が「裏切り者がいる」と言われた時、自分たちがイエス様の教えをきちんと理解していない「裏切り者」であることに気づいたはずです。ですから彼らは衝撃を受けたのでしょう。


 イエス様が捕えられ、十字架に掛かり、命を落とされるまであとわずかです。弟子たちを教育し直す時間などありません。それでもイエス様ご自身は、これも神の時だと受け止められました。神様のご計画は、十字架の死と復活を通して、死の向こう側にある神の国への希望を与えることです。イエス様はその教えをご自分からから引き継ぐのはこの弟子たちであると信じておられました。今の彼らがどれほど未熟で理解が浅くても、イエス様は彼らを愛しておられたのです。

 そのようなイエス様の想いのこもった最後の晩餐は、今私たちが行なっている聖餐式の原型となりました。イエス様は「取りなさい。これはわたしの体である」と言われ、また杯を取り上げて「これは多くの人のために流されるの契約の血である」と語られ、新たな意味をお与えになったのです。

 聖餐式についてはパウロがコリントの信徒への手紙第一11章で「誰でも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」と語っています。「自分をよく確かめた上で」というのは大切なことです。最後の晩餐の席上で「裏切り者がいる」と言われて弟子たちがおののき、結果として自分自身の心と向き合ったように、私たちも、自分がイエス様のお心を理解し行動しようとしているか、未熟であれば未熟なりに、聖餐をいただく前に吟味しなくてはならないのです。


 最後になりますが、500年前、ダビンチが最後の晩餐を描いた中世のキリスト教の世界では「キリストは笑わなかった」と決めつけられており、修道院では笑顔や笑い声などもってのほかだったそうです。その修道院に飾られるために描かれたからでしょう、最後の晩餐のイエス様の口は閉じ、何か悲しげな表情に見えまます。しかし最新の修復技術を使った結果、もともとダビンチの描いたイエス様の口は開いており、弟子たちに語り掛け、喜びを持って、御自身の受難を教える姿が描かれていることがわかったのです。

 イエス様は私たちのために、十字架の死を目の前にしても神様を信じて微笑み、朽ちないパンと罪の赦しを告げる杯を差し出してくださったのです。この恵みを覚えつつ、主の復活と永遠の命に備え、私たちの聖餐式に与って参りましょう。 


礼拝堂の横、歩道に面した細長い花壇も
花盛りになって来ました
毎年この時期になると
「冬に勝利した」とばかりに
咲き誇る花々を見るのが楽しみです
特にこの冬は飯田でもマイナス7度を記録しましたから
ダメになった植物もありましたが
多くがたくましく花を咲かせてくれました

アルメリア
蕾がついたまま冬を越し、鮮やかに咲きました
真冬、何度も蕾をカットしようと思ったのですが
切らなくて本当に良かったです

ムスカリ
厳寒時に葉が枯れたようになり
開花は無理かと思いましたが
なんのその
暖かくなった途端にあっという間に咲きました

細長い通路なので
体をねじ込んで手入れをしなくてはなりませんが
道ゆくみなさんに喜んでもらえるので
励みになります(牧師夫人談)


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