2021年3月9日火曜日

宮清め(日曜日のお話の要約)

聖餐式・四旬節第3主日礼拝(2021年3月7日)
出エジプト20章1-3節 Ⅰコリント1章20-21節 ヨハネ福音書2章13-22節


 イスラエルの首都エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教の聖地と言われます。宗教の違いでしょっちゅう争っているイメージがありますので、3つの宗教は元をたどれば同じ神を崇めています、と説明すると混乱する方が多いでしょう。


 簡単に説明しますと、紀元前13世紀くらいに、まずユダヤ教が誕生します。創世記に登場する信仰の父アブラハムが、息子イサクを捧げようとした岩の上に、のちに神殿が建てられました。この神殿は紀元70年にローマ帝国によって壊されましたが、現在でも神殿の西側の壁だけは残っています。これが「嘆きの壁」と呼ばれるもので、熱心なユダヤ教徒たちはここで祈りを捧げています。


 一方、キリスト教はユダヤ教の歴史とダブッて1世紀に誕生します。イエス様が十字架に架けられた「ゴルゴタの丘」に建設されたのが聖墳墓教会で、今も世界中から巡礼訪れて礼拝が行われています。


 最後に7世紀になって、ムハンマドが天使ガブリエルから神の言葉を授かったところから始まるのがイスラム教です。イスラム教では、神のことをアッラーといいますが、ユダヤ教とキリスト教と同じ神様です。イスラム教の開祖ムハンマドはアブラハムがイサクを捧げようとした「聖なる岩」の上に手をついて、そこから天に上がっていきました。イスラム教徒たちはこの聖なる岩を丸い屋根で覆い、「岩のドーム」としました。 

 それぞれの宗教の指導者たちがこの場所の権利を巡って争うのは、単にその場所でお祈りしたい、と言う単純な理由ではなく、そこに自分たちの宗教の神殿を建設したいからのようです。


 さて、紀元前1000年ごろソロモン王の時代に、まずユダヤ教はここに神殿を建設します。それは実に豪華で素晴らしい神殿でした。しかし建築を指揮したソロモン王は決して驕らず、謙虚な祈りを捧げています(列王記上8章)。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も天の天もあなたをお納めすることができません。私が建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」。

 要約しますと「どんなに立派でも人間の建てた神殿などに神様がお住まいにならないのはわかっています。しかしどうかこの神殿に目を注ぎ、ここで捧げられる祈りを聞いてください」と言うのです。そして「これから先、神様に罪を犯した者達が罪から離れて立ち返るなら正しい道に導き返してください」と続けます。大切なのは「悔い改めた私たちがここで神様に祈るなら、どうか聞いてください」つまり「悔い改め」が重要だなのです。「立派な神殿を作ってそこで祈れば、祈りが聞かれる」と言うのは間違いです。


 しかし旧約聖書を読んでいくと、と次第に勘違いが起きていることがわかります。豪華な神殿に仕える祭司は驕り高ぶり、民衆も「立派な神殿があれば神様の守りがもらえる」と言う風に変わってしまいます。肝心の「悔い改め」がどこかに行ってしまうのです。何度か宗教改革も起きましたが、愚かな間違いは繰り返されました。イエス様の時代もやはり、祭司は堕落し、人々は勘違いした信仰の真っ只中にあったのです。


 イエス様の宮清めの出来事は、そのような状況を背景としていました。この時エルサレムでは過越の祭りのが行われており、熱心な人々がエルサレム全土から神殿に巡礼にやってきました。イエス様もガリラヤ地方から弟子たちと共にエルサレムへ行かれたと思われます。しかしそこでイエス様がご覧になったのは、祈りの場とはかけ離れた神殿の有様でした。そこでイエス様は縄で鞭を作り、両替商も動物達も追い払ってしまわれました。


 この場所では、献げものを購入したり、神殿献金専用のコインと交換する取引所が作られ、多額の手数料を取る不正な商人が商売をしていました。しかし、神殿に仕える祭司たちは不正なやり方を注意するどころか、商人に場所を貸すことで儲けていたのです。

 遠方からやってくる人々の熱心な信仰を利用して金儲けし、なんとも思わない人々の姿は、イエス様の目にどれほど悲しく映ったでしょうか。神様への信仰を平気で悪用する人々をイエス様はそのままにすることはできませんでした。イエス様は神様の悲しみや怒りを代弁して、大暴れなさったのです。


 ところでこの場になぜ牛や羊、鳩がいたのでしょうか。再び旧約聖書に戻りますと、レビ記に「焼き尽くす献げ物」の規定があります。動物に自分の罪の身代わりとなってもらい規定に応じて牛や羊、鳩を神殿で屠って祭壇で完全に焼き尽くして神様に献げます。するとそれは「香ばしいかおり」として天へと昇っていきます。神様がその香りを嗅がれる時、罪の許しを乞うて礼拝する人間をご覧になります。その人間の信仰を神様は受け入れ、罪を赦して下さるのです。


 私たちの文化から見れば、奇妙で肉がもったいない、と思いますよね。イスラエルにもそう思う人がいたかもしれません。レビ記には「焼き尽くす献げ物」の他に「和解の捧げ物」というのがあり、願いが叶った時に感謝の思いを込めて動物の一部が焼かれて神様に献げられ、一部は祭司が食べ、さらに一部を献げた人が食べることができます。神様を囲んで、喜びいっぱいの感謝の焼肉パーティのようです。

 しかし祭司たちの中から、もっといい肉を食べたいという欲張りが出てきます。(サムエル記上2章)人間の食い意地や罪深さはどうしようもありません。神様はやっぱり全部焼くよう定めればよかった、と思われたかもしれません。やがて神様は罪の赦しのために肉を焼いて捧げるのではなく、他の方法を人間にお示しになるのです。


 思い出していただきたいのですが、洗礼者ヨハネはイエス様と出会った時、「見よ、神の小羊」と呼んでいます。これは、イエス様に神殿で捧げられる罪の赦しの犠牲の子羊を重ね合わせたからです。イエス様はヨハネの言葉通り、ご自分の命を十字架の上で犠牲として神様に差し出し、私たちの罪を全て取り去ってくださったのです。そのお姿はまさに罪を贖う神の子羊でした。


 この出来事以降、イエス様が自分の罪の身代わりとなって死んでくださったのだ、そう信じる時、私たちの悔い改めの思いは神様に受け入れられ、新しい人生に導いていただけようになりました。ここにキリスト教の大切なポイントがあるのです

 一人一人は罪深い人間であるにも関わらず、神様は召し出してくださいます。罪に陥った時にはイエス様が私たちの心のうちを宮清めしてくださることを固く信じ、神の民として新たな歩みを進めて参りましょう。





今年も教会の皆さんと一緒に
辰野までセツブンソウを見に行ってきました
少し足を伸ばして福寿草も見ることができました
感染対策に気を配りながらの小旅行でしたが
どんなに冬が厳しくても
春は必ず来るよ、と自然が告げているようでした

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