四旬節第4主日礼拝(2021年3月14日)
民数記21章4-9節 エフェソ2章1-10節 ヨハネ福音書3章11-21節
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言うイエス様のみ言葉は、「ニコデモ」という人物との会話の中で語られています。ニコデモはファリサイ派の一員で、長い間、民衆に信仰や聖書、律法を教える立場として生きてきました。また、議員として国を支える立場でもありました。それゆえ、今イスラエルとユダヤ教が陥っている堕落した有様をよく知る人物でした。
社会的立場のあるニコデモは、今のイスラエルや自分の人生を憂えていたのでしょう。しかし一介の教師のイエス様に人生の道を尋ねにいったと噂になったら困る、と思ったでしょうか、人目を忍んで夜間にイエス様の元を訪れたのです。
社会的立場のあるニコデモは、今のイスラエルや自分の人生を憂えていたのでしょう。しかし一介の教師のイエス様に人生の道を尋ねにいったと噂になったら困る、と思ったでしょうか、人目を忍んで夜間にイエス様の元を訪れたのです。
ニコデモはイエス様に対し「あなたは神様と共におられる特別な人物です」と礼儀正しく挨拶します。しかしそれに対してイエス様は「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とお答えになりました。何か噛み合わない会話です。
しかしこれは「神様のことが分かりたい、神様のことが知りたいなら、新たに生まれなければならない」と言う意味で、ニコデモの心に刺さる一言だったのです。ニコデモは高齢者ですあったと思われます。ですから、イエス様から「そのあなたが新たに生まれなさい」と言われた時、いわゆる「もうお迎えが近い」自分に向かってなんと残酷なことをおっしゃるのだろう、と感じたのです。それで思わず「もう一回母親のお腹に入って生まれ直せと言うのですか」と、言い返してしまったのでしょう。
するとイエス様は今度は「水と霊によって生まれ直しなさい」と言われます。キリスト者である私たちは「これは『洗礼を受けて新しい人生に踏み出せ』と言っておられるのだな」と漠然とわかりますが、この時のニコデモにはさっぱりわかりません。
怪訝な顔をしたままのニコデモに対し、イエス様は今度は新しく生まれさせる「霊」のことを、風にたとえて語られました。「風」という言葉は、実は「霊」と同じ言葉です。「風は思いのままに吹く」、つまり霊は自由に働かれるので、わたしたちがその働きを把握したり予想したりは出来ない、ということです。
信仰というものは神様が全くの自由な御意志によって人間の心に与えられた賜物であって、ニコデモが救いを求めるてイエス様のところに来て跪いているのなら、ニコデモ自身は全く気づいていなくても、神様の霊が信仰の道へと招いている証しである、と言われているようです。
さて、続けてイエス様は14節で「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」とおっしゃいました。民数記に記録されている出来事を指しています。私たちには唐突に思えますが、ニコデモにとっては得意分野です。イエス様はニコデモがわかりやすいように、旧約聖書から引用されたのでしょう。
イエス様の時代から1200年も前、イスラエルの民は奴隷状態だったエジプトから約束の地に向かって脱出します。リーダーは神様に任命されたモーセでした。脱出の旅は辛く厳しく、多くの民衆が不満を言ってモーセに逆らいました。このことが神様の怒りを買い、神様を信じない不信仰な人々として炎の蛇に噛み殺されてしまいます。
恐れをなした民衆はモーセと神様の前に、神様を信じず不満を漏らした罪を悔い改めます。モーセがこれを聞き入れ神様に祈ると、神様から「青銅の蛇を作り、旗竿の先に掲げるように、それを見たら、助かる」と約束をいただきます。それ以来、旅の中で蛇が人を噛んでも、青銅の蛇を仰ぐと助かるようになった、と言う記録です。
イエス様は、蛇にかまれて毒が回って死ぬはずの者が、青銅の蛇を見上げて命を得た出来事を引用し、ご自分がやがて十字架に上げられる出来事と重ね合わせて語られたのです。
イエス様にとって今のニコデモは、蛇に噛まれた傷口を押さえ、絶望して泣き叫ぶ民衆と同じでした。だからこそ、今、自分の傷口からいったん目を離して、青銅の蛇を見つめなさい、とイエス様は言われました。青銅の蛇に例えられたもの、すなわちイエス・キリストを見上げなさい、と言われたのです。
ニコデモ、あなたは自分の過去の失敗、罪深さ、弱さ、そう言った傷口ばかり眺めて苦しんでいるが、そこから目を離し、十字架の私を信頼して見つめなさい、そうすればあなたは命を得る。私がそれを保証する、と言われたのです。
そして青銅の蛇の例えに続いて「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と語られます。自分一人で絶望して悲しむのではなく、神様があなたを愛していることを信じなさい。私は旗竿の上に掲げられた青銅の蛇のように惨めな姿で十字架にかかるが、これは神様の尊いお約束なのだ、と言われるのです。
イエス様は、人々から「神に見捨てられ十字架で死んだのだ」と嘲られても、なおも神様にその命を委る信仰を貫き、これはあなたたちを救うためですよと約束してくださいました。イエス様との約束ゆえに、神様は私たちのことを愛してくださいます。私たちは2度と神様から見放されることはないのです。そして、この世の命が尽きた時、神の国に迎え入れられ、永遠の命が与えられる扉が開かれているのです。
一人の滅びも喜ばれない神様は、イエス様の御業を通して世を救い、人々に天国、神の国、永遠の命をお与えになったのです。
最後になりますが、ヨハネ福音書にはもう一度ニコデモの名前が登場します。19章39節です。イエス様が十字架の上で息を引き取られ、身近な弟子たちが恐怖で一度は逃げ去ってしまった時、ニコデモは「アリマタヤのヨセフ」と共にイエス様のお身体を清め、埋葬したのです。そこにはかつて過去の自分を憐れみ絶望していた老人の姿はなく、確信を持ってイエス様を信じ、歩む一人の信仰者がいたのです。ニコデモは確実に神の国に向かって歩み、神様に迎え入れられました。
私たちも、過去の傷口を、罪を、不信仰を振り返って悲しむのではなく、イエス様が十字架の上で命を捨ててまで切り開いてくださった天国への道を、永遠の命の道を、確かな足取りで歩んでまいりましょう。
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