四旬節第5主日礼拝(2021年3月21日)
エレミヤ書31章34節 ヘブライ書5章8-10節 ヨハネ福音書12章20-26節
「一粒の麦」という言葉は「人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人」を例えることがあります。このイメージは、聖書の、本日読みましたヨハネ福音書12章24節から出ていると考えて差し支えないでしょう。
イエス様は十字架にかかって、たったお一人で尊い命を落とされました。しかしその教えは弟子たちを通して広がりました。その様は、たった一粒の麦が地に巻かれた後、数年後には黄金に輝く麦畑に広がるように、世界中の民族を超えてキリスト教会として結実し、私たち自身もそこで養われるようになったのです。
「一粒の麦」のたとえが語られたのは過越祭と言われるユダヤ教の3大祭の時でした。ギリシャ人達が12弟子の一人フィリポのところにやって来て「イエス様にお目にかかりたいのです」と申し出たことが発端となっています。
この時期にエルサレムにいたこのギリシア人達は、単なる観光ではなく、神殿の神様を礼拝をするために来ていました。彼らは、当時すでにギリシア語に翻訳されて知識層に読まれていた聖書を読み、ユダヤ教に改宗を希望した、あるいはすでに改宗した熱心な地位のあるギリシア人だったのでしょう。
このギリシア人達は、エルサレムに来てイエス様の教えを耳にし、さらに心を揺さぶられたのでしょう。いい加減な気持ちでイエス様にお会いしたいと言ったのではなかったのです。フィリポとアンデレも、ギリシア人達の真剣さが理解できたからこそイエス様に取次ぎを買って出ました。
しかしイエス様と異邦人を引き合わせようとするのは、実に大胆な行動でした。というのは、この時までイエス様はわずかな例外を除いて、異邦人との関わりを避けておられたからです。聖書には異邦人との関わりがたくさんあるような気がしますが、それはむしろ特殊な事例としてはっきり書かれていたからです。イエス様ご自身が弟子達に「異邦人の道に行くな。むしろイスラエルの家の失われた羊の家に行け」と教えておられるように、イエス様はまずユダヤ人に神様の教えを正しく伝え直すことに重点を置いて来られました。
フィリポとアンデレも今までイエス様の教えを忠実に守っていました。もともと異邦人との接点を嫌うユダヤ人の彼らが、自発的に異邦人をイエス様の元に導こうとしました。これはイエス様にとって本当は喜ばしい変化であり、重大な宣教の転機を意味する出来事であったのです。
ある神学者がこの出来事を指して「神の国がユダヤ人から異邦人に移ることの序曲ともいうべきものであった」と語っていますが、まさに私もそう思います。
この時、イエス様は十字架の死を目前にして、エルサレムにロバの子に乗って入って来られたばかりでした。人々はシュロの葉を打ち振り、イエス様を「ユダヤ人の王」として歓迎しました。弟子たちはそのお姿を見て心から誇らしく思い、「うちの先生は本当に世界に通用する王様なのだ」と高揚した気持ちになったことでしょう。ですから、ギリシア人に頼まれた時「ついにギリシア人までがイエス様のところに教えを請いに来たのだ」と嬉しくなったのではないでしょうか。
イエス様はそんな二人に対して、まず「人の子が栄光を受ける時が来た」と話し出されました。「時が来た」というのは、聖書独特言い回しで、「イエス様が神様の御計画通り、十字架につく、その時が来た」という意味です。しかし、フィリポとアンデレはお言葉を取り違えて「そろそろローマを打ち破り、イスラエルの王国を解き放つ時が来たのだ」とワクワクしたでしょう。そんな彼らに向かって、イエス様は「一粒の麦」のたとえを話されたのです。
ご自分が十字架にかかり、身代わりとなって命を落とすことで、ご自分を信じる人々の罪は赦され、神様と和解できる。やがて地上の命が尽きるとき、彼らは神の国に迎え入れられ永遠の命を得ることができる。しかしそのためにはご自身はどうしても死ななければならない。
この時、イエス様の語る「一粒の麦」という御言葉の意味を弟子達が理解したとは到底思えません。なぜなら彼らは十字架にかかったイエス様を一度は見捨てて逃げ出すからです。しかし使徒言行録には、この後弟子達が迫害を受けながらも宣教活動を様子がはっきりと記されています。やがて地中海沿岸の町々に信徒の群れが生まれ、教会が建てられ、ユダヤ人以外の人々も信仰者とになりました。あの時、イエス様が十字架に着く直前にギリシア人とお会いになったかならなかったかは、聖書にははっきりとは記されていませんが、その後には明確にギリシヤ人に対する救いの道は開かれて行ったのです。
イエス様の教えが広まっていった結果として一粒の麦から生まれた新たな麦として私たちも生きています。異邦の民、異邦人にも、神様の教え、言葉、そして、イエス様の存在を伝える使命を持っているのです。私たちは、一人一人がキリストの麦として、キリストに結ばれて、自分が何のために生きて、死ぬのかをいつもしっかりと捉えていなくてはなりません。
これからも、私たちはこの教会で礼拝を守りつつ、この場から新たに一粒の麦として歩むものが起こることを信じつつ、イエス・キリストに倣い、その教えをこの地に根付かせるよう深め続けてまいりましょう。
担任のまゆり先生が幼稚園の真向かいにあるおしゃれなカフェで
お茶会を開きました
牧師夫妻もご相伴に預かりました
フルーツをあしらった可愛らしいマフィン よく見ると「ご卒園おめでとう」の旗 |
担任のまゆり先生 |
ここは酒蔵をリノベーションした広々したカフェで天井も高く
園児お馴染みのファミレスとは一味違います
みんなちょっとおしゃれをして参加
飯田では今、しばらく陽性者が出ていないので
思い切って行うことができました
コロナの影響で何かと行事に制限のあった年長さんたち
良い思い出になってくれたらいいな
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