創世記17章1-2節 ロマ4章17-18節 マルコ福音書8章31-38節
イエス様が天に帰られた後、キリスト教の初期に全く異なるタイプの二人の伝道者が宣教を牽引しました。元ファリサイ派のインテリで、キリスト教の迫害者から熱心な伝道者に変えられたパウロと、イエス様の一番弟子でガリラヤ湖の漁師だったペトロです。
本日の福音書は、イエス様の一番弟子だったペトロが、イエス様から叱られているところです。ペトロについてもう少し詳しくお話ししておくと、彼の生まれはガリラヤ湖の沿岸のベトサイダでした。ガリラヤ湖周辺は異郷の地とも呼ばれ、ユダヤ人以外の出入りも多い土地でしたが、ペトロは一人のユダヤ人として国を憂いていた骨太の男性でした。
やがてイエス様がガリラヤで宣教を開始された時、ペトロは一番最初に兄弟のアンデレと共に弟子として迎えらます。それ以来ペトロは3年半の間、イエス様の一番近くで様々な教えを聞き、奇跡を目の当たりにし、イエス様こそイスラエル全土が待ち望んだ救い主だと確信したのです。
そのイエス様が弟子たちに向かって、ご自分の受難の予告をされるのです。3日後復活するともおっしゃいましたが「殺される」とはっきり言われてしまうと、一番弟子としては我慢できないでしょう。「イエス様は神の子なのだから、御自分を邪魔する人々は滅ぼして理想の世界を作ってください」そんな激しい思いがペトロの心の中に湧き上がったでしょう。だからこそイエス様はペトロに「サタンひきさがれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られたのです。
仮にこの叱責がなかったら、ペトロであっても、理想を追求するためなら相手を叩き潰しても構わない、と言う情熱を信仰だと勘違いし続けたかもしれません。イエス様はペトロの暴走しやすい気質を見抜かれ、早い段階で思い留まらせてくださったのです。ペトロは元々親分肌で情に厚く、周囲から信頼される人物でしたが、のちには異なる立場や考え方の人々にも伝道していきます。彼の気質を生かした上で、さらに成長させるためにも、この叱責の意味はあったのです。
さて、もう一人の伝道者パウロは、ファリサイ派のエリートでした。自らを厳しく律し先祖から伝えられてきた神の教え、律法を正しく守ることこそ神様に喜ばれることだと信じて疑いませんでした。パウロは、キリスト教徒を撲滅することこそ神様に喜ばれることだと信じ、ダマスコと言う土地まで追いかけていきます。しかしその途中でイエス様の声を聞き、天からの光に照らされて失明してしまいます。自分のしてきたことは間違いだったと悟ったパウロは激しく悩みます。
そんな彼のところに、神の霊に導かれたアナニヤというクリスチャンが訪れ、見えなくなった目を癒してくれます。この体験を通してパウロは劇的な回心を遂げ、キリスト教の宣教者になったのです。パウロはイエス様を信じたことによって、もともと持っていた深い聖書知識に新しい理解を与えられました。回心後はそれを生かして情熱的に宣教を行う人となったのです。
キリスト教を代表するペトロにしても、パウロにしても、イエス様から一度は叱られているというのは、興味深い出来事です。その叱責が深い信仰理解へとつながることは庶民的なペトロであっても、エリートのパウロであっても同じなのです。
彼らがイエス様から召し出しを受けてから2000年の時が流れました。ペテロやパウロが伝道して生まれたイスラエルや地中海の教会は、今日建築物としては残っていません。殆どは世の情勢に巻き込まれて消えていきました。単なる観光客としてその土地を歩くだけなら、「虚しいなあ」と思うかもしれません。しかしパウロやペトロの作り上げた教会がそこに無くなった今も、イエス様の教えは聖書に刻まれて、世界に広がり続けてます。
彼らが思う描くことさえなかった、日本に住む私達が時を超えて彼らの信仰を受け継いでいることこそ大いなる奇跡であり、神様のご計画なのです。
本日のローマ信徒への手紙4章18節には「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いた」とあります。ここに登場するアブラハムは創世記で神様から子孫を与えると言う約束をいただきながら、子どものないまま99歳の老人になってしましました。しかし彼は望みを抱き続け、やがて息子が与えられ、その子孫からイスラエル人が誕生し、その血筋はやがてイエス様の誕生へとつながりました。それゆえにアブラハムは信仰の父と呼ばれるようになりました。
ここで120年の歩みを続けた私たちの教会は、本教会から援助を受けてきた立場で、新しい会堂建築のための積み立てもできませんでした。日に日に古びていく教会堂を目の当たりにしながら、諦めが先に立つ日々だったかもしれません。しかしそんな私達をイエス様は目覚めよと叱咤され、今までとは違う、新たな信仰の道を歩むよう導いておられます。
私たちの世代は今、ここにもう一度信仰の宮を建設しようとしています。一人一人が新しい礼拝堂で過ごす時間はわずかかもしれませんし、あるいはせっかく新築しても、私たちの次の世代はあるのか、と暗い思いが頭をよぎるかもしれません。
しかし、私たちもまた、アブラハムのように望みを抱いて信じ、神様がここに起こしてくださる信仰の群れを、夢見るものでありたいのです。
一人一人の夢が確かな確信に変わるためには、揺るぎない信仰が必要です。今日もみ言葉に励まされながら、ともに進んで参りましょう。
ここに載せる写真を探してみましたが この一週間はあまり出歩かなかったせいか いい感じの写真がありませんでした この写真は昨年の3月11日に 隣の空き地で撮ったものです 昨年は暖冬だったのだなと、改めて思います 東日本大震災から間も無く10年 覚えて祈ります |
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