創世記9章8-11節 Ⅰペトロ3章18節 マルコ福音書1章9-15節
世界の始まりの時、神様はご自身の似姿として人間をお作りになりましたが、最初の人間アダムとエバは、神様とのたった一つの約束を破り、神様の国を追放されてしまいました。そしてアダムとエバの間に生まれた長男カインは嫉妬が原因で自分の弟アベルを殴り殺すという大きな罪を犯してしまうのです。
神様から離れた人間は、欲望や感情のままに相手の命を奪うような存在になってしまいましたが、神様は人間を完全に見放すことはおできになりません。数世代に一人でも、神様を信じる信仰深い人間が誕生することを喜び、その子孫が絶えないように守ってくださったのです。例えば先ほど読んでいただいた創世記「ノアの箱船」のノアなどはその典型的な存在です。
人間がどれほど罪深い世界を作り上げようとも、神は人を滅ぼすようなことはなさらず、それどころか時が満ちれば、救い主を遣わして、神様と人間との間に生まれた断絶を解消してくださるという約束をしてくださいました。その約束は、旧約聖書にはっきりと記されたのです。
時は流れ、イエス様の時代、ユダヤの人々は旧約聖書を通して救い主がいつか到来することを信じていました。当時のユダヤはローマの支配のもとで表面的には平和でも、社会は混乱していました。ローマの権力を利用してのし上がるもの、革命を起こそうとして命を落とすもの、絶望しているもの、様々な人々がいたのです。
そのような中、イエス様は民衆の前に姿を現されました。神様と人間との間にできた深い溝を埋めることを使命とされ、宣教の生活をスタートするため、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。
しかし人間の社会はあまりにも罪にまみれていました。神の御霊は、まるでこれからイエス様の受ける試練を暗示するかのように、あるいはウォーミングアップをするかのように、人っ子一人いない荒野にイエス様を導いたのです。
「荒野の誘惑」の記述はマタイ福音書とルカ福音書に詳しく書かれています。しかしマルコ福音書は、この誘惑物語を極端に短く記しています。「サタンから誘惑を受けられた」と記した後、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と書いてあるだけです。
マルコが強調したかったことは、試練の内容ではなく、サタンの誘い掛けや嫌がらせはこれからもありとあらゆる形で続くし、イエス様はその度に苦しまれるけれど、神様への信頼は決して失われず、神様からの守りも、決してイエス様から離れない、ということなのです。
さて、私たちは、イエス様を神様、救い主として信じています。実際に荒野に導かれることはなくても、現実の世界を生き抜くことは、まるで荒野を歩むようだと感じることはないでしょうか。その場所で、何があってもイエス様を信じる力は揺るがないと断言できるでしょうか。
「大丈夫、私はイエス様から離れない」そんな風に断言できるのは、意気揚々と信仰の世界に足を踏み入れた、洗礼直後の若者だけでしょう。信仰生活を続ければ続けるほど、誰もが自分の弱さや罪深さを突きつけられますし、誰もが自分の中に潜んでいる不信仰に苦しむのです。
しかし、信仰生活を長く続けるということは、自分の弱さに開き直ったり、自分が成長しない言い訳を覚えることではありません。長く信仰を続けられるということは、イエス様が私たちの弱さを理解してくださった上で、ご自分の思いを託し、この場所を、神様の思いの溢れる場所としなさいと命じておられるのです。ここに集う者には誰でも神様の平安が与えられ、安心の元に過ごすことができる、そんな場所を作るように、と私たちに使命を与えておられるのです。
最後になりましたが、本日の聖書に出て来る「誘惑」という言葉には、良いイメージがないと思います。しかし福音書で使われている「誘惑」という言葉は、元々のギリシア語では「テストする」という意味があります。
テストされるのは嬉しいことではありませんが、キチンとしたやり方でキチンとした相手が行うなら、テストを受ける側の訓練となり、自分の長所と短所を知り、成長に結びつくものです。
私たちの人生は「どうやったらイエス様を信じぬくことができるか」というテストを常に受けているようなものです。このテストは信仰の成長段階に応じて次々と与えられます。どのように厳しいテストで、どれほどひどい成績であっても、神様は決してお見捨てにならず、成長を望んでおられることに変わりはないのです。
私たちが努力し続けるとき、イエス様はその思いを喜ばれ、祝福してくださいます。たとえ、この先、思いも寄らぬアクシデントが起きて、挫けそうになるかも知れません。そのような時こそ、イエス様ご自身でさえ荒野でテストを受けられた出来事を心によみがえらせ、歩み続けていこうではありませんか。
「荒野」にはイエス様がおられて、私たちを見捨てず、導いてくださると信じ続けること、信じる努力をするなら、必ず道は与えられ、導いてくださいます。今までがそうであったように、これからもそれは変わりません。
私たちにこのキリストの教会を託された神の思いを胸に刻みつつ、日々努力を怠らず、信仰に歩んで参りましょう。
教会のフェンス沿いの狭いスペースに 植えつけたクリスマスローズ ようやく花が開きました 狭い場所なので 這いつくばって撮ってみましたが なかなかうまくいきません |
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