2021年2月9日火曜日

シモンのしゅうとめ(日曜日のお話の要約)

顕現後第5主日礼拝(2021年2月7日)

イザヤ書40:29-31 Ⅰコリント9:19-23 マルコ1:29-31


 本日の聖書箇所はシモンのしゅうとめが熱を出した、というお話です。シモンというのはイエス様の一番弟子、ペトロの本名です。シモンはのちにイエス様から名前をいただいてペトロと呼ばれるようになりますが、ここではまだ本名の「シモン」です。ちょっとややこしいので、今日は馴染みのある「ペトロ」という名前で呼ぶことにしましょう。


 ペトロは腕の立つ漁師で、イエス様のお弟子さんになる前にすでに結婚をしていました。子どもがいたかどうかは分かりませんが、彼が漁師の仕事をやめ、イエス様のフルタイムのお弟子さんになってしまったことは、周りの人々にとって驚きであり、心配の種だったに違いありません。

 その日は安息日だったので、ペトロ達なりたてほやほやの4人の弟子は、イエス様に従ってユダヤ教の教えを伝える会堂に行きました。律法学者と呼ばれる人々が聖書について「教え」を説いていたか、その準備をしていたはずですが、イエス様は、そこに入って教え始められたのです。

 「律法学者のようにではなく権威あるものとしてお教えになった」と書かれているのは、知識をかさにきた上から目線、と言いうのではなく、聖書知識の豊かな人も、それほどない人も、耳を傾けずにはいられない、そして、ああ神様の教えとはこういうものなのか、と心奪われてしまう、そんな力強いお話だったのだろうと思われます。


 この出来事の後、イエス様と4人の弟子達はペトロの家に行きます。ユダヤ教の風習では、礼拝のある日には料理をしません。その前日にお重のようなものに料理を詰めておき、それぞれに取り分けながら寝っ転がって食べるのです。

 ペトロ自身は、イエス様の素晴らしさに誇りを抱き、「どんなもんだい、俺の先生はすごいだろう」という感じでイエス様をお招きしたのでしょう。

 けれども、周りの人々にとってイエス様はまだまだ見知らぬ他人でした。シモンの姑というのは、ペトロの奥さんのお母さんなのですから、すっぱりと漁師をやめてしまったペトロを見て、いくらイエス様が素晴らしい先生だとしても、娘の将来を案じて不安に思っていたに違いありません。

 そのイエス様と娘婿が、礼拝が終わってから、家にやってくるのです。ペトロは前もって自分の妻や姑にイエス様をお連れするから、と話しておいたことでしょう。ペトロの顔を建てるためにも、もてなさずに入られません。成人男性5人に十分な量を用意するかはなかなか大変ですが、その上、大先生がやってくるとなると非常に神経を使ったはずです。料理を作った後、疲れ果てたとしても不思議ありません。


 ペトロは自分の姑が働き者だということを以前から良く知っていたはずです。姑のことだから、イエス様に気を使って、ぶっ倒れるぐらいもてなしに精を出してくれるだろう、とも思っていたかもしれません。しかし本当に熱を出して寝込んでいるとは想像していなかったことでしょう。

 会堂で大評判になったイエス様を、誇らしげに妻の実家に連れていくと、そのお母さんが熱を出していると聞きます。しかしこの時、ペトロは黙っているんですね。「ヨメの母が熱を出して寝込んでしまいまして」などと言えば、この食事会はすぐにでも中止になるかもしれません。それは嫌だ、俺は何としてもイエス様をもてなしたい、そう思ったペトロは体調を崩した姑のことを隠そうとすら思ったかのでしょう。

 しかし周りの人々はペトロの気も知らずに、熱を出し臥せっている姑のことを口々にイエス様に話したのです。するとイエス様は、慌てるペトロを尻目に、姑のそばに行き、手を取って起こされたのです。そしてあっという間に熱はさり、彼女はたちまちのうちに元気を取り戻しました。そして彼女が一番先にしたのは一同をもてなすことだったのです。


 イエス様は、人間が病気の原因をあれこれ詮索したり、隠そうとしたり、自分に信仰がなかったから病にかかったとか嘆いたりしている間に、やさしく手を取ってくださり、起こされる方です。姑が元気になり、もてなしが始まった、イエス様はそれだけで十分だとお考えになる方なのです。


 イエス様は癒しの奇跡を行われた後、まるで何事も無かったように、それが当たり前であるかのように、自然にふるまわれました。人間が苦しみの中にあることを見過ごしにはなさらない。それをごく自然に手を差し伸べてくださる方、それがイエス様なのです。

 私たちにとって、今は苦境の時です。新型コロナに振り回される日常も、この会堂の立て直しも、心配に心配を重ね、念には念をと考えます。また、教会の将来に想いを馳せながら、共に信仰に生きてくれる仲間がどうしたら増えるだろうかと不安になることもあります。

 けれども、私たち一人一人はすでに自分の為すべきことを与えられています。たとえ熱を出して倒れ伏すことがあっても、主が起こしてくださるという平安はいつもあるのです。どれほど心配の種があったとしても、私たちは神様の配慮の中にあり、神様のご用のために用いられていくのです。


教会の片隅に植えておいたスノードロップ
この数日暖かかったので
花が開き始めました
まだまだ寒い日が続きますが
確実に春は近づいていますね

0 件のコメント:

コメントを投稿