復活節第5主日礼拝(2024年4月28日)(白)
使徒言行録8章26~40節(228)
ヨハネの手紙Ⅰ4章7~21節(445)
ヨハネによる福音書15章1~8節(198)
イエス様のお話には、二つのものを対比させる例えがよく出てきます。麦と毒麦のたとえとか、放蕩息子と兄の話などを話されました。それで今回のお話「まことのぶどうの木」について考えるとき、もしかしたら「まことのぶどうの木」に対して「偽物のブドウの木」というものが世の中に存在するのだろうか、と思い、時間をかけて調べてみました。
しかし、いろいろ調べてみても「毒を持った偽ブドウ」というものは見つけられませんでした。ただ調べているうちに、ワインに関する興味深いホームページに辿り着きました。それによるとパレスチナには120品種もの固有種のブドウがあり、そのうちワイン造りに使えるブドウが20品種もあるのだとか。
しかし、イエス様の時代、赤と白とか、甘口・辛口などの区別はしても、特定の品種からワインを造っていたわけではないらしいのです。ぶどうに向いた品種を見定めさえすれば、ざっくりした手入でも産地の強みでそこそこのぶどうが実り、良いぶどう酒ができたのでしょう。
ただ、ざっくりしすぎた場合、「毒ぶどう」とまで行かなくても、使い物にならない、まずいぶどうしかできないこともあったはずです。旧約聖書にも新約聖書にも、農夫たちが手入れを怠ったために酸っぱいぶどうが実ってしまった、という記述があります。ちなみに、酸っぱいぶどうというのは神様への不信仰の例えとしてよく使われます。
さて、先ほどからお話ししている通り、イエス様はご自分の事を「まことのぶどうの木」と言われました。この木は神様が決して手を抜かず、愛情込めて手入れなさる木です。イエス様は言われます。私に繋がっていなさい、そうすれば神様につながっていることになり、世話をしていただけて、豊かに実を結ぶことができます、とイエス様は呼びかけてくださいます。
ところで皆さんはこの「まことのぶどうの木」はどのような姿をしていると思われますか?私がイメージするその木は、一見平凡でぶどう畑の中で特別目立つわけでもなく、近寄り難い神々しさもない。あちらこちら傷ついて、厳しい気候に耐えてきたことが想像できる無骨な木です。ただ、よくよく見ればその木には無駄なところがなく、心を込めて手入れがされていることがわかるのです。
使徒言行録8章で朗読されているイザヤ書53章にはメシアの姿が描かれています。救い主は「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」人物です。預言者イザヤの描き出す救い主は神々しいお姿で人々の上に君臨するのではなく、ひどく傷つけられた姿で登場します。軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、最後には捕らえられ、裁きを受けて、殺されるのです。
しかしこの人物は自らを神様への献げものとすることで人々の罪が神様に赦されたことを知って満足するのです。5節には「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と記されています。
神様は罪人である私たちを救うためにイエス様に使命をお与えになり、イエス様ご自身も救い主としてそれを受け入れられます。イザヤ書のこの部分は、鞭打たれボロボロになって十字架の上で死なれたイエス様に重なるのです。
だからこそ、私はイエス様が「私はぶどうの木」とおっしゃるとき、ボロボロだけれど力強いぶどうの木を思い浮かべるのです。その木の幹には痛々しい傷が残っているけれど、神様の愛で癒され、手入れが施されているのです。そのぶどうの木、イエス様が自ら枝を差し伸べ、豊かに実を結ぶために、私に繋がりなさい、と呼びかけてくださるのです。
ではイエス様の言われる「豊かな実り」とは何だと思われるでしょうか。イエス様につながっているというのは、苦難の時もイエス様の元を離れず、何があっても信頼し続ける、という意味です。その結果得られる成果を「豊かな実り」と呼ぶことができるでしょう。
ガラテヤの信徒への手紙5章には、神様に導かれ、繋がり続けた人々が結ぶ実として「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と挙げられてています。これは、神様に育てられた人々が獲得することのできる長所、良いところと言えるでしょう。
これに対し、神様に導かれることを拒む人々は「敵意」や「争い」、「そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」しか得られないとも書かれています。私たちがどちらの実を実らせたいか、言うまでもないと思います。
ただ、わかっていても、どんな時も強く深い信仰を保ち続け、神様の導きを疑わないで従っていくのは難しいことです。しかし最初から「できない」「難しい」と言い切ってしまうのもイエス様を悲しませる発言です。なぜならイエス様は私たちの弱さを理解しておられるからです。
イエス様は今日読んだ聖書箇所には「あなたがた」という言葉を何度も何度も使っておられます。私たちに向かって「あなたがた」と呼びかけ、「どんな時も、孤独に耐え忍びなさい」というのではなく、あなたのそばには私が招いた他の人々がいる、その人々と一緒に繋がり続けなさい、とおっしゃるのです。
イエス様という力強いぶどうの木は、神様によって完璧に手入れが施されています。そのぶどうの木に繋がり、仲間と共に良き実を実らせようとする姿は、イエス様の望まれる信徒の集まり、この世の教会の姿そのものなのです。
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