復活節第3主日礼拝(2024年4月21日)(白)
使徒言行録 4章5~12節(219)
ヨハネの手紙Ⅰ 3章16-24節(444)
ヨハネによる福音書 10章11~18節(186)
日本で生活していると、羊を目にすることはあまりありません。まして羊の群れが羊飼いに導かれている様子を見ることは、よほどの規模の観光農場にでも行かない限り、ないと思います。
私は神戸教会の牧師をしていた時、幸いなことに、六甲山牧場で羊の世話係の方が羊を導いている様子を見せてもらったことがあります。彼の合図に従って羊の群れが坂道を駆け降りて小屋に戻ってくる様子はかなりの迫力で、うっかり跳ね飛ばされたら大怪我をしそうな勢いでした。羊は群れの仲間が見える場所だと、安心して草を食べるそうですが、一頭がパニックに陥ると群全体で突然暴走を始め、なかなかコントロールできないので、初心者がヒツジの番をするのは難しいそうです。
よくヒツジは視力が悪い、と言われるのですが、それは私たちが考える近眼というのとは少し違うそうです。ヤギや羊の瞳は横長の楕円形をしています。これによって、羊は振り向かなくても自分の背後を見ることができます。その反面、対象を立体的に見る能力が低くて、影や地面のくぼみを見間違え、ひるんで先に進まなくなることがあるそうです。ですから、目に前のちょっとしたくぼみが深い穴に見え、勘違いで動けなくなったりパニックになったりするのです。
まあ、そんな羊たちを守るのが羊飼いの仕事です。現代の日本では農場で飼われている羊を襲って食べる動物はほとんどいないはずですが、聖書の舞台であるパレスチナ地方では、今でも羊の群れが餌を求めて移動しますから、羊を狙うオオカミやハイエナ、狐、そのほか野生の獣と遭遇します。旧約聖書の時代、羊飼いはパニックに陥りやすい羊を落ち着かせながら、原始的な武器を用いて襲ってくる野獣と戦い、時には羊を盗みに来る泥棒とも戦って群れを守ったのです。
とはいえ、全ての羊飼いが全力で羊たちの命を守ってくれる訳ではありません。本日の聖書箇所でイエス様が言っておられるように、雇われ羊飼いの中には「羊を置き去りにして逃げる」人々もいたのです。仕事と割り切って羊を世話しているので、羊を守るために命まで投げ出すほどの愛情も熱意もない、というわけです。
ですから、イエス様はここであえて「良い」という言葉をつけて「良い羊飼い」という言い方しました。「羊のために命を捨てる覚悟があり、またそのように行動する羊飼い」を「良い羊飼い」と呼んだのです。
この「良い羊飼い」という言葉を聞くと、多くの方が旧約聖書の詩篇23編を思い浮かべるでしょう。そこに描かれている情景は、さらっと読むだけなら牧歌的で美しく、神様に導かれて幸せだなあ、というイメージです。しかしよく読みますと、「死の影の谷を行く」とか「私を苦しめる者」という言葉が出てきます。羊飼いに導かれる羊の群れは、決して花の咲き乱れる野原を、何事もなく平和にのんびりと歩いているのではないのです。どれほど優秀で優しい羊飼いに導かれていても、絶望や恐怖を味わうことはあるし、危険と縁が切れるわけではないのです。
しかし羊飼いは何があっても群れの羊たちを愛しているので、命懸けで、時には自分が傷つき命を落とすかもしれない状況も嫌がらないで、守ってくれます。それを信じるからこそ、羊たちは「死の影の谷」、つまり絶望や恐怖の中を羊飼いと共に潜り抜けますし、自分に危害を与える存在が目の前にいても、安心して食事をすることができます。
イエス様は、ご自分がこの良い羊飼いである、と断言されます。そして、ご自分の呼ぶ声を聞いて、信頼してついてくる羊とはあなた方だ、教会で礼拝をしてみ言葉に耳を傾けている、まさに君たちなのだ、と言ってくださるのです。
ここにいる私たちの多くは洗礼を受けてイエス様の羊の群れに加わりました。洗礼を受けたときはよく分からなくても、キリスト者としてイエス様に導かれて「死の影の谷を行く」年月を積み重ねるうちに、イエス様個人と心のつながりが確実に強くなり、離れることなど考えなくなるのです。
ではイエス様は羊である私たちを、危険から庇いながら、どこに導こうとしておられるのでしょうか。それはイエス様の父のもと、つまり神様の元であり、天の御国なのです。どれだけ苦しくても、あなた方の人生は死んでお終いになるのではない、そう約束して天国に導いてくださるのです。
こんなことを言うと、厳しい修行に耐えなければキリスト者として成長できないのかなあ、人生もっと楽しく楽に行きたいのになあ、とうんざりされるかもしれません。しかし、キリスト者として長くイエス様に従ってきた羊であれば、知っていることがあります。私たちの人生はどんな道を選んでも苦悩も苦労もある、ということです。
順調に見えても心のうちは孤独であったり、自力では引き返せない過ちの深みにはまり込んでしまったり、誰にも頼れないで寂しい思いをしていたり。
それを経験的に、あるいは本能的に知っている私たちはイエス様に信頼を寄せ、ついていきます。そしてまだイエス様の元に来ようとしない羊たち、イエス様のおっしゃる「囲いの外にいる羊たち」を呼び寄せ、苦しみや迷いから解き放ち、一つの群れになるために、さまざまな方法を考え、共に学び、共に祈る、そのために私たちは教会に集まるのです。
囲いの外にいる羊を導く、これが伝道です。これをしない限り教会員の数は決して増えません。伝道とは牧師だけがやればいい、というものでもありません。私たち一人ひとりが囲いに入っていないほかの羊たちに、イエス様の思いを、イエス様の声を届けるために、自分の思いと力を使って、小さなことであってもありとあらゆるチャンスを捉えて積み重ねていくのです。イエス様は命をかけて私たちをここに集め、あなたたちならできる、と語りかけてくださったのです。
「イエス様は良い羊飼い」私たちはこの思いを胸に刻んで、私たちのために命を捨ててくださったイエス様に信頼し、死の影の谷を共に通り抜けてまいりましょう。
土曜学校の写真 もう一枚貼っておきますね 可愛い笑顔でしょう? |
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