聖餐式・復活節第2主日礼拝(2024年4月7日)(白)
使徒言行録 4章32-35節(220)
ヨハネの手紙Ⅰ 1章1-10節(441)
ヨハネによる福音書 20章19-29節(210)
科学や医療が発展した現在、以前は不治の病とされたものでさえ、治療や改善方法も見えてきました。このことで「人間は死ぬもの」という考えを頭の片隅に押しやって、死んだ後に与えられる「永遠の命」を求めなくなったと言われています。
この世が楽しければ、少しでも長くこの世に留まることを望むのは理解できます。だいぶ前にアメリカ留学から戻った牧師先生から伺った話ですが、「永遠の命」を信じないわけではないが、「天国」に行ったらイエス様に会えるからではなく、クリスチャンである先祖にあえる、教会のクリスチャン仲間に会えるという程度なのです。
この考えが広がることは日本のキリスト教にとっては大きな痛手です。あの世、この世を教え、先祖代々の仏様を守ることを教えることを美徳とすることは、すでに日本文化の中で当然のこととなっており、死んだらあの世でご先祖様や先に死んだ家族に会える、という考え方はほとんどの日本人に定着しているからです。
先祖崇拝や初詣をするだけで「仏教徒」を名乗り、必要以上にキリスト教を毛嫌いする方もたくさんおられます。聖書には「天国」もあるけど「地獄」もあるという教えをお話しすると、妙な新興宗教に染まっているように思えるのか、「地獄へ行くなんて「かわいそうじゃないか」と敬遠されるのです。しかし今この瞬間も、たった一つの核兵器のボタンで世界の終わりがやってくるかもしれません。私たちは本当に死と隣り合わせの人生を生きているのです。
本日の福音書は、イエス様の復活を女性の弟子たちから告げられたにも関らず、権力者たちを恐れて家の戸に鍵をかけた弟子たちの物語です。時はもう夕方になっていました。この時の彼らはイエス様に教え学んだ日々のこと、宣教して人々に喜ばれた日々のこと、イエス様に議論を挑んできた律法学者やファリサイ人をギャフンと言わせた出来事などを思い出していたことでしょう。楽しく豊かな日々は過ぎ去り、イエス様は一人で十字架に掛けられ、自分達は逃げ出した。思い出が楽しければ楽しいだけ、彼らは自分の弱さに傷つき、ふさぎ込んでいました。
そんな彼らの気持ちをイエス様は誰よりも感じ取っておられました。なんの手順も踏まずに、いきなり鍵をかけた部屋に、落ち込む弟子達の真ん中に立たれたのです。すでに夕方だというのに、その様子は夜明けの光が部屋に差し込むようでした。弟子たちは、明るい光の中で、イエス様の手にあるくぎ跡と深々と開いた脇腹の傷をはっきりと見たのです。
普通なら死んでいるはずのボロボロの肉体のまま、イエス様がそこに生きていたのです。彼らは強い衝撃を受けます。人間によって奪われた命を、神様は新たに与えてくださるということを目の前のイエス様のお姿を見て直感的に悟ったのです。人間は人間によって生きるのではなく、神によって生きるのだということを、心から納得した瞬間でした。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」この言葉を聞いた弟子達は、イエス様を地上に送られた神様の意図を理解し、また自分達をお集めになったイエス様の思いも受け止める用意ができたことでしょう。そしてイエス様も、弟子達の決意を部屋に溢れる空気から感じとられたのでしょう。喜びと平安を取り戻した弟子たち一人一人に向かって、イエス様は息を吹きかけ言われました。「聖霊を受けなさい」。
このみ言葉は、神の思いから離れて世界が闇に包まれようとするときにあっても、いえ、そのような時だからこそ、あなた方は神様から与えられた力によって光になったのだということです。人間という、土から出来たものに過ぎない存在が、イエス様によって新たに創られたのです。
さて復活後の出来事で、24節から、トマスの物語がまるで付け足したかのように始まります。弟子達が復活のイエス様とお会いした時には、そこにいなかった、と「そうそう、忘れてたけどそうだったんだよ」とばかりに記されています。トマスは最初の場にいなかったため、「聖霊を受けなさい」と言われませんでした。そんな彼は仲間はずれにされてひがんだ子どものように「イエス様の傷跡を見ない限り信じない」と宣言します。イエス様がこの世で受けた傷であり、辱めを受け、最後は殺されてしまった、そんな闇の象徴のような傷跡を見たがったのです。そのような状態から生き返ることなんてありえない、と言い放ったのです。
しかしイエス様は、そのようなトマスの思いを知った上で、またもや弟子達の中心に立たれ、「安かれ」と言われたのです。そして今度は「聖霊を受けなさい」ではなく、「信じなさい」と言われたのです。「見ないで信じる者は、幸いです」という言葉は、「聖霊を受けなさい」と同じく、力強い言葉なのです。
イエス様の弟子達は、エルサレムを拠点に宣教を始め、あるものは伝道旅行に出発しました。その中で一番遠く、今でいうインドまで旅をしたのがこのトマスと言われています。彼は暗闇の中を歩く人に神の光を届けるために、イエス・キリストを宣べ伝えました。ただこの世界を神の光で照らされることを祈り願ったのです。
「疑り深いトマス」という不名誉な名前で呼ばれたトマスですが、イエス様の弟子として残りの生涯を捧げ切りました。力が支配する世の中にあって、光あるうちに、本当の光を届けるために、トマス自身もボロボロになりながら、宣教の旅をしたことでしょう。
私たちもまた、人々が、自分ではそうとは知らず闇の世界に生きようとする中で、光を差し出し、光の中を歩みなさいと宣べ伝えるのです。現代の価値観の中では夕方の弱々しい光くらいでしかないようにも思えます。もうすぐ夜がやってくる。たとえ、そうなっても私たちは「光ある」うちにと、イエス・キリストを宣べ伝え、信じることを、凝りもせず、傷つきながらでも積み重ねて参りましょう。
今週の土曜日は土曜学校 2週間遅れのイースターをお祝いする予定です 大人も子どももアレルギーを持った方が多くなり 卵も小麦粉も要注意です イースター恒例のたまご探しも 工夫して行います みんなで楽しくお祝いしましょう! |
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