復活節第5主日礼拝(2024年5月5日)(白)
使徒言行録10章44~48節(228)
ヨハネの手紙Ⅰ5章1~6節(445)
ヨハネによる福音書15章1~6節(198)
聖書に描かれているイエス様は、徴税人たちと酒を酌み交わすようなざっくばらんな一面があり、子どもにも好かれ、一緒に過ごして楽しい、というイメージがあるので、今回あえて「友だち」という言葉を使いました。今日の聖書箇所「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」というところも、「わたしはあなたがたを友達と呼ぶ」と言い換えてみると、イエス様との距離がグッと近くなるように思えます。
ここでイエス様が用いられた「友達」という言葉は、ギリシャ語ではフィロスという単語が使われています。これには、「親しい」とか「仲間」とか「味方」「忠実な者」という意味があります。
イエス様のお話には、二つのものを対比させる例えがよく出てきます。今回何と何が対比されているかというと、「友」という言葉と「僕」という言葉です。15節には「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とある通りです。
イエス様がここで使われた「僕」というギリシア語は「ドゥーロス」で、「奴隷」という意味があります。イエス様の時代、奴隷制はローマの支配する地域全体で一般的に行われていました。奴隷は金銭で売り買いされ、買い取られた主人の命令に従い、それを忠実に行なって当たり前の立場でした。命令をきちんと実行できないと、罰を受けます。能力が高ければ高く評価され、さまざまな仕事を任されますが、仕事ができないとあっという間にクビにされ、命の危険さえありました。
しかしこれに対して、友達というのは能力で決めるものではありません。何かをきっかけに出会った者同士が、苦楽を共にするうちに、さまざまなことを語り合える関係が出来上がっていく、それを友達と呼ぶのだと思います。
この最後の晩餐の夜、イエス様は、翌日には十字架にかかるという追い詰められた精神状態の中で、弟子たちに向かって「あなた方は私の友達だ、忠実な仲間だ」と言われたのです。
イエス様はこの後に起こることの全てをご存知です。ゲツセマネで血の汗を流して辛い祈りを捧げている時に、一緒に行った弟子たちが寝てしまったり。一番弟子を自負していたペトロが大祭司の僕に「お前、あの男の弟子だろう」と問い詰められ「あんな男は知らない」と否定したり。イエス様が十字架に付けられたとき、弟子たちのほとんどが逃げ去り、権力者を恐れて隠れてしまったり。復活の朝も、女性の弟子たちからイエス様が蘇ったと聞かされても信じようとしなかったり。彼らのどこが「忠実な友達」と言えるのか、と思うようなことが次々と起こるのです。それでもなお彼らのことを「友達」と言ってくださるのです。
イエス様が弟子たちを教え導いたのはご自分の命令を守らせるロボットのような存在を作るためではありません。イエス様の父である神様がどれほど人々を愛し、どれほどの犠牲を払おうとなさっているかを正しく伝え、弟子たちが命令されずとも自分の意志で喜んで神様に従う、そんな人々を育てようとなさったのです。
イエス様の弟子たちは漁師であったり徴税人であったり、バラバラです。そんな彼らがイエス様の弟子となった理由は神様とイエス様しかわかりません。ヨハネ福音書6章37節でイエス様は「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」と語られています。これは神様がイエス様のために前もって弟子を選んでおく」という意味に取れます。
また、本日の聖書箇所の16節でイエス様が「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とおっしゃるのは、弟子たちが自分でイエス様の元にやってきたように見えて、実はイエス様が彼らを選んだのが先だった、という意味です。弟子たちがイエス様と出会う以前から、神様とイエス様に選ばれた存在だったのです。そして、イエス様もまた彼らが何者であるかに関係なく、心と心を通じ合わせる関係になることを望んでおられたのです。
ご自分が間も無く十字架にかかろうとしているこの夜も、イエス様は弟子たちを丸ごと受け入れて、大切なものを見つめる眼差しを向けてくださっていました。そしてイエス様は未来の弟子たちの姿も同時に見ておられたのです。ご自分が苦難を耐え忍んで、十字架で命を落とし、蘇る時、彼らは神様の偉大さと愛の深さを知り、その信仰は再び成長を始めることをご存じで、その姿を見ておられたのです。
イエス様は彼ら最初の弟子たちがご自分の教えを携えて広い社会に出ていき、神様の愛を伝え、ご自分の教えを広め、さらに多くの弟子たちを生み出す日が来ることを知っておられたのです。そのためにあなた方を任命したのだ、とおっしゃるのです。
今、私たちが知っておくべきことは、イエス様に友と呼ばれた最初の弟子たちが次の世代へ次の世代へと信仰をバトンし、2000年の時間をかけて、イエス様の福音を私たちのところまで届けてくれた、ということです。そしてそのメッセージには13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という深く大きな愛がくっきりと刻まれているのです。
私たちは今一度素直な心になって、イエス様のこのメッセージを受け取りましょう。イエス様は2000年前の弟子から今に至るまで、少しも変わらず、私たちの友達なのだと、心に刻みましょう。そして最初にご紹介した歌の言葉を借りるなら、礼拝の場とはまさにイエス様を中心とした「チーム友達」の集う場所なのだと信じて参りましょう。
幼稚園の園舎の工事は順調に進んでいます
この調子なら、予定通り9月ごろには
既存の建物を解体する段取りになりそうです
その時、礼拝堂は幼稚園と切り離し
独立した建物として耐震補強をすることになりました
詳しい経緯をお知りになりたい方は
ここにUPしたトピックスをお読みいただければと思います
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