イザヤ書 64章1-8節(1166)
コリントの信徒への手紙 1章3-9節(299)
マルコによる福音書 13章24-37節(89)
今日から1年間マルコによる福音書を中心に御言葉を聞いて参ります。マルコ福音書は、聖書の4つの福音書での中で、一番最初に記された福音書で、この福音書がベースになって他の福音書が記されました。
4つの福音書にはそれぞれ「イエス様のご生涯のこの部分を強調したい」というテーマがあります。マルコ福音書について言いますと、著者であるマルコは、イエス様が与えてくださる恵みの大きさ、その方に頼ることの大事さ、信じることの尊さを強調します。はっきり言えばイエス様に本気で助けを求める者には奇跡や救いを与えられるが、どんなに信仰深い振りをしても、イエス様に本気で助けを求めない者には、奇跡も恵みも与えられない、ということです。
その実例としてマルコ福音書8章に、息子の癒しを求める父親が登場します。彼はイエス様に向かって「おできになるなら私どもを助けてください」と求めます。するとイエス様は「『できれば』と言うか。信じるものには何でもできる」と少し突き放したような言葉を返されます。そこで父親は慌てて「信じます。信仰のない私をお助けください」と叫ぶのです。この息子は父親の必死の思いと信仰によって癒やされる、という出来事です。この求めが大切だ、とマルコは教えるのです。
ところでマルコによる福音書の書き出しには「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と記されています。この「福音」という言葉は「良い知らせ」という意味で、本来は「戦争に勝ったぞ」という「勝利の宣言」です。ですから「神の子イエス・キリストの福音の初め」とは「イエス様の勝利宣言」と訳しても良いところです。つまり、マルコは高らかに、非常に力強い言葉で福音書を書き始めたのです。
しかし、著者であるマルコが、最初からイエスを神の子だと信じて疑わず、積極的に歩み続けた人だったかと言うと、そうではありませ。実は14章でイエス様がローマ兵に捕まった時、心配でこっそりついて行こうとしたものの捉えられそうになって裸で逃げ出した若者とはマルコ自身のことで、彼はこっそり自分の失敗記録を記録しているのです。
元々はマルコの母親が先にイエス様を信じて弟子となり、裕福だった彼女は教会を支援していたようです。マルコはそのつながりでイエス様の弟子達や宣教者パウロと親しくなり、やがてパウロと共に地中海沿岸に伝道旅行に出かけるまでになりますが、あまりにも苦難が多かったため逃げてしまい、パウロから軽蔑されます。その様子もまた、使徒言行録15章にはっきりと記されています。
しかしその後、パウロとマルコは和解します。パウロはマルコを頼りにし、非常に良い関係を築いたことがコロサイの信徒への手紙4章10節や第二テモテ4章11節に書かれています。何が彼らをそこまで変えらのかはわかりませんが、マルコが恥や苦しみを経てクリスチャンとして成長したことは確かなのです。
ところで、マルコはイエス様がどんなに奇跡を行っても、どんなに救いの業を行っても、どんなに平安な教えを説いても、結局のところ、十字架の苦しみを負わなければならなかった、それを目撃した人物の一人です。人を救いに導くためには、心の底から怯え、逃げ出したくなるような大きな苦難がある、そして、マルコは本当に逃げ出してしまった。しかし、マルコの心はイエス・キリストに捉えられており、再び、イエス様の元に戻り、福音を語る人生が与えられたのです。
神様はなぜ、こんなにも回りくどいことをなさるのでしょう。それは神様ご自身がこの世を愛しているからです。人類は歴史の中で、不安や妬み、自己実現の為に騒動を起こし、何度も神様を悲しませ、滅亡への道へと踏み出そうとしました。しかし、その歩みを逆方向へと向かわせる人たちがいます。それはクリスチャンとして何度失敗しても、イエス様に引き戻される人々なのです。もうだめだと深い挫折の中にいる人々に手を差し伸べることができるのは、自分も失敗し、許された経験を持つ人であり、そうした人が教会を作っていくことが、神様にとって、イエス様にとって喜びなのだということを、マルコは知ったのです。
人間は世の終わりが近いかもしれない、と感じ取ると、妙に熱狂的な態度をとって神様に媚びるかも知れません。私はこんなにも神様に祈り、何度もお願いをしていだと主張するのです。
あるいはその反対に「どうせ、この世が終わっていくなら自分の人生を優先させたらいい、好き勝手にやって、人生を楽しむことが、何よりも大切なことだ」と信仰生活に無関心になる人もいるでしょう。
しかし、そういった行動は間違いであることを、イエス様の教えを正しく知る誰かが伝えなければなりません。イエス様が天に帰られた以降は、福音を託されたイエス様の弟子達、その集まりであるキリストの教会が、イエス様の代理として、行っていかなけばならないのです。マルコはそれに気付きました。
マルコは自分の失敗を決して隠すことはありませんでした。自分が天国へと召される時まで、たとえ尻込みしたり、逃げ出して恥をかいたりしても、神様、イエス様の為に何度でも立ち返り、イエス様の教えを自分の言葉で書き記し、伝え、守っていくことが、自分の役割だと確信して歩み続けたのです。
イエス様は、「たとえこの世が滅びても、ご自分の言葉は決して滅びない。その言葉を信じるものは永遠に滅びない」と約束してくだいました。私たちは福音書を通してその御言葉を受け止め、自分に示された約束として信じ続けるのです。
先週の土曜日は今年最後の土曜学校でした。
くにえ先生のクリスマスの紙芝居
悪筆を返上したい朝比奈牧師の書(?)を使った暗誦聖句
ゆうこ先生の工作教室
17名のお友達が楽しく過ごすことができました
情報では、学級閉鎖で自宅軟禁(?)のお友達が数名いたとか
連絡したら参加できなかったことをとても残念がってくれました
来年、またよろしくね
くにえ先生の紙芝居 古典的な作風の紙芝居でしたが むしろ捻りがなくて素敵 所々にページェントの歌を交えながらの朗読でした |
牧師の聖句書道(^▽^) ゆうこ先生が抱っこしているのは 腹話術人形(ライオン)のジオジオ 先月から土曜教会学校デビューしました |
ゆり組の教室をお借りして工作教室 自然素材を利用して 可愛いツリーを作りました |
一人一人のお友達の作品は次回のブログでご紹介します |
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