2023年12月10日日曜日

「主の道を備える」(日曜日のお話の要約)

待降節第2主日礼拝(2023年12月10日)

イザヤ書 40章1-11節(1123) 

Ⅱペトロの手紙 3章8-15a節(439)

マルコによる福音書 1章1-8節(61)


 先ほど読みましたマルコによる福音書には「洗礼」について触れられています。洗礼者ヨハネにはたくさんの弟子がいましたが、ヨハネがヘロデ王に捉えられて死刑になった後、その中の一部の人々が伝道者パウロが出会って洗礼について話し合います。使徒言行録19章です。そこでは洗礼者ヨハネの施した洗礼と、イエス様が主張された洗礼の違いが記されており、ヨハネの弟子たちが改めてパウロから洗礼を受けたことが書かれていて、興味深いところです。


 マルコによる福音書の著者であるマルコについてですが、マルコの母親はエルサレムに住む裕福な女性で、イエス様を尊敬し、弟子集団を経済的に援助していたようです。息子のマルコは弟子集団に加わるほど熱心な信徒ではなかったようですが、イエス様の弟子と触れ合うチャンスは多かったはずです。


 イエス様が十字架に掛かる前の夜、ゲッセマネで祈っていたところを敵対するユダヤ人たちに捕まえられた時、マルコはあとをついていこうとして見咎められ、羽織っていた寝具を剥ぎ取られて裸で逃げた、という記録を自ら書き残しています。


 マルコは、好奇心は強くても、いざとなれば小心者、という自分のキャラクターをよく知っていたのでしょう。それでも、イエス様が天に帰られた後、教会が発展していくと、社交性や語学能力に恵まれていたマルコは、教会の集会で通訳の奉仕を始めました。


 やがてその才能をパウロに見出され、パウロと共に地中海沿岸の町々へ出かけ、キリスト教伝道を行いました。パウロはローマの支配のもとにある町々にキリストの平和を伝え、すべての民族が共存できる世界を創り出そうと考えていました。


 そんなパウロたちと共にローマの帝国支配下にある倫理観の歪んだ都市を目の当たりにしたマルコは、この世を救っていくのは、キリスト教信仰しかないと確信します。そして、イエス様の12弟子の中でも特に一番弟子のペトロから色々教えてもらいながらイエス様の伝記とも言うべき福音書を書き表したのです。ですから、マルコによる福音書は、世界の平和を創り出すために、重要な書物だったと言えるでしょう。


 ところで、少し時間を遡りますと、マルコが物心ついた頃には、イスラエルのローマ帝国に対する反発はどんどんに強くなっており、民族あげての独立運動も激しくなっていました。熱心党という今で言う過激派的な組織も存在しました。


 一方で、こうしたローマ帝国による支配を「今は悔い改めの時なのだ」と受け止め、禁欲的になって神様に立ち返り、信仰を研ぎ澄ませていこうとしました。このグループはエッセネ派と呼ばれました。


 イエス様がお生まれになった時のユダヤの王・ヘロデは、ローマに媚びて支配者の椅子を手にしました。ユダヤの民に豪華絢爛な神殿を建てたけれど、それは、ユダヤの民を思うように支配するための手段でした。そしてその息子のヘロデ王の代になると、ユダヤ国内の乱れはさらにひどくなっていきました。


 もちろん、そのような国の姿に満足している国民は誰もいませんでした。そこで登場したのが、先ほどお話ししたエッセネ派の指導者、本日の福音書に登場する洗礼者ヨハネでした。


 マルコは自分が書いた福音書にこのように記しています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」これは物凄い規模の洗礼式と言えます。


 新しい時代が、どのようになるかは分からなくても、人々はこの時、新しい時代を夢見て、イエス様により頼めば自分も世の中も変わるのではないかと期待して、洗礼を受けたのです。


 さて、お話はがらっとかわって、現在の日本という国ですが、少子高齢化による急激な人口減少で、このままでは70年後には国として存続できなくなる、とまで言われています。そこで国会では、「3人以上の子どもを持つ家庭には、高等教育を無償化する」と決定したというのです。


 なんだか「いまさら?」と言いたくなりますが、それでもようやく、日本という国が教育の大切さに目を向けたのか、という思いがします。


 私たちは今「戦後」ではなく、もしかしたら「戦前」と言われる時代に立たされているのではないか、と思わされます。さらには、能力主義に心が疲れ、生きる意味を失い、無力感にさいなまれ、精神的な不安を抱える人が、わたしたちを取り巻いており、そこに飲み込まれそうになることもしばしばです。しかし、「誰か自分を救ってほしい」、「自分が歩むべき道を示して欲しい」という願いや祈り、はたまたうめき声や悲鳴さえも聞こえてきます。


 私たちクリスチャンとされた私たちは、信仰の原点をしっかり捉え、洗礼者ヨハネがそうでったように、主の道を備える者、人々をイエス様の元へ導く役割を背負った者たちです。


 福音記者マルコは、高い能力を持ちながらも、若き日には小心者だったが故に、失敗や後悔もありましたが、キリスト者として福音書を書くまでになり、彼の描き出すイエス様のイメージは優しく力強く、時を超えて私たちを導き続けてくれています。私たちは道を備える者、そしてそれを深く理解する者として、今生かされているのです。


さて、前回予告しました土曜学校の写真です

保護者の皆様から掲載許可をいただいているお友達

誇らしげに工作を掲げています

同じ素材を使っているのに

少しずつ違うところが面白い!


もし「あれ?うちの子の写真は載らないの?」と思われたら

ぜひぜひご一報ください!

改めて掲載させていただきます(^▽^)















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