2023年12月18日月曜日

「キリストを証する」(日曜日のお話の要約)

待降節第3主日礼拝(2023年12月17日)

詩編 126編(971) Ⅱテサロニケの手紙 5章16-24節(379)

ヨハネによる福音書 1章6-8節、19-28節(163)


 ヨハネ福音書の書き出しにはこうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」


 少々回りくどい表現ではありますが、イエス様こそ私たちを作った神様であり、信じる者たちを照らす光であることを、美しい表現で書き記しています。


 しかし最後の部分には「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」つまり「イエス様を取り巻く環境は暗かった」、「イエス様はさらに光り輝いたが、周りの人々はイエス様のことを理解しなかった」という意味にとれます。


ただ、ヨハネは「理解しない人だらけだった」と言いつつも「その光は消されるとか、潰されて消滅してしまった訳ではない」と主張します。


 そんなふうに前置きをした後、福音記者ヨハネは、「洗礼者ヨハネ」のことを「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」と、具体的に書き始めます。


 洗礼者ヨハネが神様から与えられた役割は、イエス様こそ神の独り子であり、救い主であることを証しし、多くの人々にその存在を宣げ広めることでした。彼の人生の目的はイエス様を「証し」をする事であり「この人を見よ」と指し示す人でした。ですからヨハネ福音書には随所に「証し」という言葉が使われており、イエス・キリストを証しする福音書と言われているのです。


 私たちキリスト者は「証し」という言葉をよく用いますし、信仰生活を通して「イエス・キリストを証し」することを大切にしていますが、何をすれば「証し」になるのか、悩むこともあります。ヨハネ福音書は、この証しのありかたを、洗礼者ヨハネの言動を用いてアドバイスしています。


 4つの福音書には全て、ヨハネがユダヤの人々に悔い改めを呼びかけてヨルダン川で洗礼を授け始めた事が書かれています。民衆はエルサレムにある神殿や宗教教育機関で集会所には行かず、荒野にいる、らくだの毛衣を着たヨハネの元に集まり、洗礼を受けたのです。人々はヨハネの証しに胸を鷲掴みにされ、いてもたってもおられず、神様の前に悔い改めたいとヨハネの元に集まったのです。


 ただ、ヨハネ福音書はここでどれくらいの人数が集まったとか、どれくらいの規模で宣教活動が行われた、ということには触れず、宗教指導者たちとの対決を中心に記録しています。


 洗礼者ヨハネの教えは、ユダヤの人々にとって、子どもの頃から当たり前にやってきた宗教行事に背を向け、人生と信仰をやり直すことでもありました。これが指導者たちにとって大問題でした。つまり、従来の教えでは自分達は救われないのだ、ダメなのだ、と言われているのと同じだったからです。指導者たちはこのヨハネこそ、旧約聖書に預言されている救い主ではないか、そうだったら自分達の立場は根底から崩れてしまう、と大いに焦って問いただしたわけです。


 しかし、当の本人、洗礼者ヨハネは、「わたしはメシアではない」と言います。祭司やレビ人が「預言者なのか」「世の終わりを告げる預言者なのか」と聞いても、すべて「そうではない」と否定したのです。


 実はここに「証し」のポイントがあります。何か重要な局面に出くわした時、もちろん逃げ出す人もいますが、そうでなければ「自分が言わなければ」「自分がやらなければ」という思いが強くなります。ただ嫌なことを言うようですが、これは極端に言えば「自分こそが救い主だ」という思いを抱いているのと同じなのです。


 私たちは自分に社会的肩書があったら発言に重みが出るかも、とか、人が言うことを聞いてくれるかも、と期待しがちです。しかし、洗礼者ヨハネは政治のトップ集団から「あなたは救い主か?」と尋ねられて否定し、「私はあなたたちが期待するような何者でもない、私はただ、荒野で叫ぶ声にすぎない」そして、自分より後に来られる方の準備をしているのすぎないのだ、と答えます。


 それを聞いた祭司やレビ人の反応は微妙だったでしょう。「じゃあ、何でこんな勝手なことをやっているのか」と批判したり嘲笑したりしたかもしれません。しかし私たちは神様を証しする時、そういったリスクがあることも理解しておかなければならないのです。もし自分の肩書きを振り回して相手を黙らせるなら、それは神様を、そしてイエス様を証していることには決してならないのです。


 私たちは、イエス様の偉大さを知っています。そして昨日も今日も、その生涯を通して、色々なことを学び続けています。イエス様に倣って可能な限り偏見なく愛を持って人々と接すること、虐げられた人にやさしくすること、嫌がらせするものや悪意をもつものにも、毅然とした態度を取ること。そして祈ること。


 そして、たとえ、罠に陥れられ、苦難や十字架に掛かることがあっても、神様は知っておられ、見ておられるということ。


 聖書を通して学び取るすべてを心に刻みながら、どんな時も神の愛を覚えて生きていくことが大切なのです。そしてそのような心があれば、おのずと私たちも「証し」するものへと変えられていくのです。



毎月、飯田教会の機関紙を出しています。

今回本当はクリスマス特集にしたかったのですが、先月の起工式の情報を載せそびれましたので、よかったらクリックして拡大して読んでくださいね。




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