2022年3月27日日曜日

「放蕩息子」のたとえ(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(紫)(2022年3月27日)
詩編32編10-11節 ルカによる福音書15章11b-32節 

 本日はイエス様の語られた「放蕩息子」のたとえについてともに聞いて参りましょう。このお話には兄と弟、金持ちの父親が登場します。父親は二人の息子を同じように愛し、可愛がっていました。

 兄息子はコツコツ真面目に働くタイプでしたが弟の方はあまり真面目とはいえませんでした。ですから兄弟仲は良いとはいえず、弟はなんとか兄を見返してやりたいと思っていたでしょう。こ弟はついに父親に向かって「私がいただくことになっている財産の分け前をください」と言い放ちます。当時の常識で考えれば、生きている間に息子に財産を与えるなどということはあり得ない出来事だったにもかかわらず、土地や家畜を二人の息子に分け与えます。

 しかし弟息子はそれら全部を数日で金に換え、家を離れ、遠い国に旅立ってしまいました。おせっかいな家族、不本意な労働、堅苦しい宗教儀式。彼はそれらから自由になれたことを本気で喜び、放蕩を開始します。その金払いの良さに、何人か友人もできたかもしれません。しかしそれは短い間に過ぎませんでした。

 手持ちの金がなくなると、彼の周りから人々は去っていきました。手に職もなくコネもない彼は、やっとのことで人の情けにすがって豚飼いの仕事にありつきます。そこは豚の餌に手をつけたくなるほど飢えに苦しむ場所でした。
 ここまできてようやく彼は、自分が神の民、聖書の民であることを自覚するのです。生きていくためとはいえ、ユダヤでは汚れているとされる豚の仕事を続けていくことは耐え難いことでした。

 彼が幼い頃から親しんできた聖書には、神の民がエジプトから約束の地へと旅立った時、その40年間の旅路の間、60万人を超える人々が食事を与えられたことが記されていました。
 ここで野垂れ死ぬのは嫌だ。そう思った時、父の家には、神様の恵みと感謝する日々が当たり前にあったことを思い出したのです。「息子として扱われなくて構わない、とにかく父の家に帰ろう」そう決心するのです。そして皆様もご存知のように、慈愛に満ちた父親は弟息子が生きて戻ってきたことを心から喜び、再び息子として迎え入れたのでした。

 この放蕩息子のたとえ読み返してみますと、弟息子はギリギリのところでよく決断して帰ってきたものだと思います。しかしよくよく考えてみますと、このたとえ話の話し手はイエス様です。この物語は単に親子の情愛を描いたものではないことにもう一度注目したいと思います。

 当時イスラエルには、神様の掟から離れた人々を罪人と呼び、犯罪人同様に差別しました。徴税人や売春婦や、重い病気にかかった人々や障害を負った人々も神に見放された人間として差別の対象となりました。ファリサイ派の人たちや、律法学者たちは、先祖に与えられた律法を拡大解釈して、こうした人々は神様の憐れみを受けるどころか様に近寄ることも許されていないと信じ、一般民衆にもそのように教えていました。ですからイエス様の寛大な態度が我慢ならなかたのです。

 しかし、イエス様はむしろ捨てられたとされる人々に積極的に近寄り、迎えに行かれる方でした。時には、ユダヤの律法の届かない異教の地にまでおもむき、手を差し伸べられました。イエス様は、神様とは罪人のレッテルを貼られた人々が自分から戻ってくるのを待つ方ではなく、罪人の元まで行き、探し、見出し、連れ戻す方であるとお教えになりました。そしてそれはまたご自身の姿であると暗示しておられました。
 イエス様は、社会から爪弾きになっている人々に向かって、あなたは決して神様に見放されていない、神様はあなたを愛しておられる、と伝えるために、3年半にわたって民衆に語りかけられたのです。そして、自ら罪人同様に見せしめの十字架にかかって命を捨てられました。その上で、神様の愛によって蘇るという、凄まじいまでの荒技を私たちに示してくださったのです。

 繰り返しになりますが、神様は天国で罪人が悔い改めるのを冷静にただじっと見下ろしている方ではなく、愛を証しするためなら一人子を十字架にかけ、心が張り裂けるほどの痛みを耐え忍ばれながら、私たちに手を差し伸べられる方なのです。

 放蕩息子のたとえは、どれほどイエス様が私たちを愛してくださっているかを示すお話です。この放蕩息子が私であるなら、この嫉妬深い兄、つまり罪人の自覚がなく、父の愛に気づかず、自分は真面目な善人だと信じ込んでいる兄も、私のもう一つの姿なのかも知れません。

 それでも神様は聖書のみ言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。目の前に絶望と自己嫌悪しかない時も、自分を見放さないで愛し、導いてくださる方の存在があることを思い出して欲しいのです。そうすれば私たちは変わることができます。自分を見放さないで愛し導いてくださる方の存在に気付くことができるなら、私たちは変わることができます。この世の不平等ばかりに目が行くのでなく、自分に与えられている賜物に感謝できるようになります。なぜ今まで気づかなかったのかと感謝の想いが溢れてくるのです。

 もちろん人間一人一人には能力の差はあります。そこにばかり目を止めて、私はあの人より能力が低いから愛されていないと思うなら、神様を悲しませることになります。自分の足りなさを見つめるのではなく、自分を必要としてくださる神様を見上げるならば、遠くまで自分探しをしに行かなくとも、自分の生き方が見つかるはずです。それは私たちが病気になっても、障害を負っても、歳をとって体が自由に動かなくなっても同じです。私たちを必要とされる、神様の愛は変わらないのです。迷うことなくイエス様に仕える者として歩んで参りましょう。

牧師館のベランダ
冬の間、縮こまっていたビオラも
花数が増え始めました

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