四旬節第1主日礼拝(紫)(2022年3月6日)
詩編91編11-16節(930) ルカによる福音書4章1-13節(107)
本日から四旬節を迎えました。これからイースターに向けて心を整えて参ります。自分の心と向き合い、悔い改めの時を過ごすのですが、今私たちの前にはロシアがウクライナに侵攻し、一つ間違えば世界がとんでもない状況に晒されると言う現実が突きつけられて、心がざわつきます。
さらに、どうにも終息の目途のたたない「新型コロナウィルス」との対峙の仕方も考えなければなりません。そして私たちにとって最大の問題は地震にも強い会堂、園舎、牧師館の建て替えです。
国際問題から目の前の問題まで、どれをとってもこれだ、と言う解決策はありません。それでも私たちは問題の大小に関わらず、どんな時も強く祈り、御言葉を深く学び、イエス様を主として信頼し続ける必要があります。
本日は「荒れ野の誘惑」から聞いてまいります。イエス様の生涯を知るのに欠かせない記述ですが、イエス様と悪魔が対決するという描写は現代人にとって受け入れにくく、「悪魔なんて架空の存在だから、何かの例えに違いない」と合理的に考えようとします。しかし、「悪魔なんて架空の存在だ」と否定する前に、謙虚に本日の御言葉を聞く必要があります。
イエス様は30歳の時ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、それを境に、神の御子としての使命を果たすため公の場に姿を表されました。このことを「公生涯の始まり」と呼びます。イエス様を地上によこされた父なる神様としても、一人子の宣教開始は待ちに待った瞬間だったはずです。ところが、そんなイエス様に待ったをかけたのが、神様ご自身だったというのが、この「荒野の誘惑」の味噌的な話です。
クリスチャンの多くは洗礼を受けた時、社会のため、教会のため何かできることがあるはずだ、と理想を抱きます。しかし時に、そこに落とし穴があります。夢は膨らんでも自分にまだまだ実力はなく、どうしたら良いかと考えているうちに、周りにいる教会の人々はそれほど高い志を持っていないように思えてくる。先輩クリスチャンはみんな立派な人だと思っていたのに、そうでもない。がっかりした。
もしそんなふうに思い始めたらとても危険です。人をさばいたり見下したりをし続けていると、その人の信仰は弱くなってしまうのです。そんなふうに失望して教会を去っていった人を私は何人も知っています。
せっかくイエス様を信じたのに、教会に失望してイエス様ご自身からも離れていく。これは心のうちに悪魔の誘惑が忍び寄っていることに気づかず、すっかり悪魔の手の内に落ちてしまったことになるのです。洗礼を受けてすぐに、このような罠が待ち受けている。神様はそのことをイエス様を通して示されたのです。
三つの誘惑を順番に見てみますと、悪魔はまず空腹のイエス様に向かって石をパンに変えるようそそのかします。しかしイエス様はそれには応じませんでした。できなかったのではありません。聖書にはイエス様が5つのパンと2匹の魚だけを用いて5000人の人々を養ったことが記されています。
イエス様のお話を聞こうとして集まった人が空腹になったのをかわいそうに思われて、奇跡を行なわれたのです。ご自信が空腹の時はなさらなかった奇跡を、ご自身を信じるもの、従うものにはしてくださったのです。
二つ目の誘惑は「悪魔を拝むなら、世界の国々を従わせる権力を与える」と言うものでした。もちろんイエス様はこれを退けました。権力を持つのがいけないと言うことではありません。のちのクリスチャンの中には、政治底手腕を発揮して国を統治する人物も現れましたし、経済的にトップに上り詰めるものもいました。イエス様は豊かになることを否定したわけではなく、神様を裏切り、悪魔を拝んでまで権力を手に入れることを否定されたのです。
3つ目は「神の子ならどんな危険からも守られるはずだから試してみろ」と言うものでした。イエス様は「神様を試してはならない」と言って拒否されました。
ルカによる福音書は「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と書きます。そしてその悪魔が、ルカによる福音書の22章3節でもう一度登場し、イスカリオテのユダに入ったと記しています。
悪魔は一旦離れたように見えて、イエス様を陥れる機会を狙っていました。そしてイスカリオテのユダの心につけいる隙があることを知ります。ある解釈には、ユダはイエス様が本当に「救い主」であるか試そうとしてこんなことをしたのではないか、と書かれていました。まさにユダは「神を試そうとした」のかもしれません。しかし結果としてイエス様を十字架に押しやったユダは、マタイ福音書ではその事実に耐えられず、自ら首を吊って命を断ちます。悲惨な末路でした。
私たちの人生は思いがけないことの連続です。神様はあなたを愛し、守られるその事実は変わらないのですが、時には思い通りにことが運ばず、大いに失望することもあります。そんな時、神様への信頼を捨て、信仰を失うならば悪魔に唆されていることになります。私たちは人生の困難の中で神様に忠実に生き、その愛に自分を委ねていくことで平安でいられるコツのようなものを獲得していくのです。
人類は神様の名を使って大いなる間違いを犯します。けれども、神様が喜ばれるのは、人々の悔いる心であり、和解を求める祈りであり、敵を赦すという大胆な生き方なのです。この教えの中に生き、霊に導かれて、苦難も試練も主の恵みとして受け止め、荒野の誘惑の中にあっても、平安を得て過ごして参りましょう。
飯田市立動物園があります
こちらのタヌキは普通の本土タヌキですが なかなか可愛らしい女の子です |
白いタヌキ男子のリュウです 狸寝入り中です |
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