四旬節第5主日礼拝(紫)(2022年4月3日)
詩編126編5-6節(971) ヨハネによる福音書12章1-8節(191)
今日のお話は「ナルドの香油」と呼ばれているエピソードです。一人の女性がイエス様に貴重な香油を注ぐ印象的なお話です。これは4つの福音書全てに出てきますが、書き方や時期が少しずつ異なるので、この女性が誰だったのかはっきりしません。本日のヨハネ福音書では、イエス様が十字架に掛かる1週間前に、ベタニア村に住むマリアという女性が行ったと記されています。
この日、イエス様と弟子たちは首都エルサレム近くにあるマリア一家の家に泊まり、食事をしていました。その時、マリアが自分の香油を持ってきて、イエス様の足に塗ってしまったのです。この香油は一般の人の給料の1年分に当たるほど高価なもので、イスラエルの女性達は嫁入り道具として大切に持っていた品でした。
それを一気にイエス様の足に注いでしまったので、周りの人々は呆気に取られ、怒り出す者までいました。しかしイエス様はマリアを庇い、「私の葬りの日のためにしてくれたのだ」と言われます。
イエス様の言われた「私の葬りの日」とはイエス様が十字架にかかり、苦痛のうちに死なれる日のことを意味していました。イエス様はこれまでに何度も「私は殺されるが三日目に蘇る」と予告してこられたのですが、親しい弟子たちでさえ、真面目に受け止めようとはしませんでした。ですからイエス様は非常に孤独なお気持ちを抱えておられたことでしょう。そんな時、マリアが自分の香油を全てイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でイエス様の足を拭ったのです。イスラエルの女性は長い髪を被り物で覆う習慣があり、人前で髪の毛をあらわにするのは、はしたないことでした。
それを見てズケズケと文句を言ったのがイスカリオテのユダです。ユダは12弟子の一人でしたが、後にイエス様を殺害しようと企んだ政治家たちを手引きした人物です。ユダは「こんなことに使うくらいなら、売って貧しい人々に施すべきだった」と批判しました。いかにも正当な言葉のように思えますが、福音記者ヨハネは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身を誤魔化していたからである。」と書き添えています。簡単にいうと、ユダは泥棒で偽善者なので、ベタニアのマリアの行動を批判する資格など全くない、というニュアンスです。
イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていて、民衆は何かと不自由な生活を送っていました。祖国を解放してくれる救い主を、多くの人が待ち望んでいたのです。ユダはイエス様こそ先祖から伝えられてきた救い主で、奇跡の力で理想の国を建国してくださるだろうと信じていました。しかし、弟子になって3年の月日が流れても、イエス様は一向に革命を起こす気配はありませんでした。
イエス様の奇跡の力はいつも社会から爪弾きにされている人々のために使われました。社会からはみ出した者、神様のバチが当たったとレッテルを貼られた障害者や病人。イエス様はそうした人々に手を差し伸べられるばかりで、ユダが求めているドラマチックなことは何も起こらなかったのです。ユダは失望し、次第に信仰心を失い、神様と仲間のために用いるはずのお金に手を出してしまったのでしょう。
ただ、ユダも長い間弟子の中にいましたから、「貧しい人々に手を差し伸べるべき」というスローガンのようなものは身に付いていました。ですから「なんともったいないことを!」と言った後で、「貧しい人に施せば良いものを」と、とってつけたように語ったのです。
しかしユダの「なんともったいないことをしたのだ」という言葉は、裏を返せば「イエス様に高価なものを献げるのはもったいない」という意味にもなります。もしもユダが、イエス様が人々の罪の身代わりとなって十字架にかかる決心をされていることに気付いていたならそんな言葉は出てこなかったでしょう
マリアの行為を否定したユダは、イエス様のなさろうとしていることも否定したのです。ユダはそのことに気づかないままイエス様を裏切り、最後には首を括って死んだのです。
一方、ベタニアのマリアはこの日のイエス様は何かが違うと直感的に気づいていました。マリアは今までもイエス様と弟子たちが自分の家に宿泊されるたび、食い入るようにイエス様のお話を聞いてきました。そんなマリアだったからこそ、その夜のイエス様のお話から、ただならぬ覚悟を感じ取ったのでしょう。
はっきりとはわからなくとも、今、この時、自分のもつ最高のものをイエス様に献げたい、という強い想いからでた行動をイエス様はしっかりと受け止めてくださいました。イスラエルでは遺体を葬るとき、体に香油を注ぎ清める風習がありました。マリアがどこまで分かってイエス様の足に香油を注いだかは不明ですが、イエス様は「葬りの準備」と理解されました。イエス様は部屋中に漂う香油の香りを嗅ぎながら、一人十字架に向かわねばならない孤独を和らげられたのでしょう。
ですから同じことを記録したマタイ福音書とマルコ福音書では「世界中どこでも、福音が述べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」という御言葉が記録されています。
これはもちろん、マリアが非常に高価な献げものをしたから素晴らしい、という意味ではありません。マリアはどうにかしてイエス様に感謝を表したいという信仰と愛があった、そしてその気持ちを表すために、自分の持っている最高のものを差し出した。そのことを、イエス様は感じ取られてとても喜ばれ、彼女に深く深く感謝された出来事として記録されているのです。
ちなみに「ナルドの香油」は、今も販売されていて、少しかび臭いけれどいい香りだそうです。私たちのイエス様の働き人としての行いは泥臭いところもあるかもしれません。それでも、イエス様に献げれば心から喜んでくださいます。変わらない救いの香りがする、そのような場所を共に作り上げてまいりましょう。
教会のすぐ近くに 日本画家菱田春草誕生の地にちなんだ公園があります 飯田には古い蔵が多くて 公園のお隣にもあります 桜と風情あるツーショット |
0 件のコメント:
コメントを投稿