受難主日(主のエルサレム入城)短縮版(2022年4月10日)
詩編118編19-21節(958) ルカ福音書19章28-36節(147)
本日の福音書は、イエス様が預言書のみ言葉通り「ロバの子に乗って」行進されたことが記されています。これは、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に記されており、イエス様がエルサレムに入城される際にはよく読まれます。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」
大の大人が小さなろばに乗る姿は、何か滑稽に感じられますが、イエス様は子ろばに乗ることで、どうしてもお伝えになりたいメッセージがあったのです。
イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の属国でした。ローマによる支配はイエス様が生まれる60年ほど前、紀元前63年から始まりました。広大な領地を持つローマ帝国は、安定した支配を行うため各地の国の文化や宗教には比較的寛容でした。イスラエルにおいても首都エルサレムの神殿やそこで働く祭司たちの生活は保証され、神殿の神を讃えるお祭りなども盛大に行うことが許されていました。
政治家も兼ねている祭司たちは、ローマに適当に尻尾を振って見せることで国や自分自身の安全を確保しようとしました。やがて宗教のトップたちは、心から神様に使えるというより、政治的な駆け引きを重んじるようになっていきます。そうした打算的な姿勢はユダヤの民にも良い影響は与えませんでした。
救い主イエス様がが、なぜそんな時代に誕生されたのか、私たちにはわかりません。神様が救い主を私たちの世界に、人間に与えて下さるという約束の時が来た、とわかるだけです。
成人されたイエス様はユダヤのあちらこちらを旅して神様の愛を説き、奇跡を行われました。イエス様の奇跡の力を目の当たりにして、素直に感動して神様への信仰に立ち返った人々もいましたが、イエス様を王様として担いで、ローマを追い出すクーデターを起こそうと考える人々も多くいました。人々の様々な思惑が混じり合う中で、イエス様は十字架にかかることを目的としてエルサレムへ行かれます。そして、ゼカリヤの通り子ろばに乗って行進されたのです。イエス様はろばに乗るお姿を弟子たちにお見せになり、これこそが平和の王の姿であると理解してほしいと願っておられました。
イエス様は、今歓声をあげている人々が一週間後にご自分を裏切り「十字架につけろ」と叫ぶことをわかっておられました。その上で、戦闘能力はおろか、歩くのもやっとというろばに乗り、丸腰で進まれ「神に信頼する心が必ず平和を作り出す」とお伝えになったのです。
しかし、弟子たちはイエス様を讃える声に有頂天になるばかりで、イエス様の願いを知ろうとしませんでした。それどころか何かあった時のためにと剣を隠し持っていたのです。まことの平和の主イエス様に従っていくという信仰がありながら、もしも誰かに攻撃されれば自分の身を守るのは自分の力だと武器を用意し、自分の力で自分を守ろうとしていたのです。
イエス様のエルサレム入城の出来事は、現在の世界情勢と重なります。私たちは、ニュースを通して世界中の戦争や紛争を見ます。小さな国が大きな国に踏み躙られている姿もあれば、やっと平和を獲得した国が、再びクーデターによってボロボロになる様もあります。また国民の生活を顧みず兵器を作って実験を繰り返す国も見ます。私たちはそんな国々に囲まれて毎日を過ごしているのです。
しかし力によって世界を支配しようとすればいずれ世界の破滅につながります。いつ殴られるかわからないから、こっちも殴る準備をしておこうと、相手に勝つことばかり考えていると、文明が発達すればするほど残忍な兵器を作り出してしまいます。今、世界で戦争や紛争を引き起こしている人々の心の奥にあるのは、「誰かに殴られるかもしれない恐怖」ではないかと私は思うのです。
国が暴力で蹂躙され、次から次へとミサイルが飛んでくる事態に陥ってから「暴力反対、戦争反対」と叫んでも、もう手遅れです。そうならないために、私たちは常日頃から平和について学び、粗野な考え方や方法論が世界を支配しないように、日本を含め、腹に一物ある様々な国の政治家たちと渡り合えるように学び、国際的な仕組みを築き上げる必要があるのです。
この教会と幼稚園に集う幼い子どもたちが心から戦争を嫌い、誰かに手を差し伸べ、平和を維持させるために「知恵」と「力」を用いることこそ最高の生き方だと学びながら成長し、未来を作っていく。ただの理想論かもしれません。しかし、イエス様は世界がそうなることを望まれ、子ロバに乗ってエルサレム入城をなさったのです。本当に、世界の人々を救うために、神様が一人一人の人間を愛し、平和を実現するために、ロバに乗られるのです。
この日、イエス様をお乗せした子ロバはイエス様が何者かも知りませんし、何をなさろうとしておられるのかもわかりませんでした。何も知らなくても、イエス様に実直でありたいと思い、懸命に力を振り絞って行進したのです。
大人になると、世の中の色々な声や言葉に振り回されて、ただイエス様のおやくにたちたい、という動機だけでは素直に動けなくなります。けれども幼いうちから、イエス様を愛することが平和につながるのだと朧げにでも理解している子どもたちに未来を託し、祈り続けたいと思うのです。
私たちは幼いロバがイエス様をお乗せして歩むように、平和の声をこの場所に響かせるために、歩みは鈍くても、前を向いて一歩一歩あゆんで参りましょう。
MIYUさんの作品 元気一杯の「鮮やかなビタミンカラー |
子どもたちそれに好みの色があって
全く違った印象になるのが興味深いですね
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