詩編78編23-28節 ヨハネによる福音書 6章24-35節
今日の福音書はイエス様が五千人以上の人々に食事を分け与えた後のお話です。人々は満腹し、家路に着いたと思われましたが、翌日にはまたイエス様のもとに集まってきました。奇跡の給食を受けて感動した人々は、イエス様を王様にしようと盛り上がったのです。
それに気づいたイエス様は一旦はお一人で山に退かれました。しかし人々は諦めず、翌日になって、イエス様とその弟子たちが船に乗って出かけたことを突き止めると自分たちも小舟に乗りイエス様を追いかけます。その様子からは執念のようなものさえ感じます。
イエス様はご自分を探す人々の心の内を見抜き、こう言われました。「あなた方が私を探しているのはパンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
ようやくイエス様を見つけて、またパンを与えてもらおうと思っていた民衆は、今度は打って変わって厳しいお言葉を投げかけられ、面食らったかもしれません。
ところで、話は少しそれますが、イエス様が分け与えられたパン、その味はどんな味だったでしょう?
旧約聖書の出エジプト記の中に、飢えた人々に神様が食事を与える、有名な記述があります。旅の途中で食べ物がなくなった時、人々はモーセに詰め寄り「荒野で飢て死にするくらいならエジプトから逃げてこなければよかった」と怒りをぶつけます。エジプトで奴隷として苦労していたことはすっかり忘れ「エジプトでは肉もパンも腹いっぱい食べられたのに」と懐かしむのです。
神様はそんな勝手な民衆に、天からマナという食べ物を振らせて与え、さらにはうずらの肉までお与えになりました。このマナというのは「蜜の入ったウェファースのような味であった」と記され、非常に上品で美味であったことがわかります。
この時、神様はモーセを通して「毎日きちんと足りるだけ食べ物を与える」とおっしゃったのですが、何人かは浅ましくも余分に溜め込み、結局腐らせて無駄にしてしまいます。この出来事は、神様が民衆に愛情を注いでくださっているにもかかわらず、本心から信頼し、頼ることことをしない、その様子を記録しています。
「旧約聖書の神様は怖い」という印象をお持ちの方が多いようですが、神様と人間との関係はいつもこのような出来事の繰り返しです。どうすれば人間が神様を信頼してくれるのか、どうすれば神様の思いを理解してくれるのか、と神様の側の苦悩が記されているのです。
ですから、神の御子として地上に来られたイエス様は、神様がどんな時も私たち一人一人を養ってくださる、導いてくださるという真実を伝えようとなさいました。五千人の給食もそのような思いから実行なさった奇跡でした。
民衆は奇跡に感動し「イエス様にくっついていれば、食べることに困ることはない」と考えます。彼らはイエス様の近くにいることで、神様の愛を感じ、平安を得られる、というよりも、ただただ物質的な満足だけを求めました。
地上の食べ物は一度食べれば無くなりますから、もっと食べようとするなら、額に汗して働き、お金を得なければなりません。仕事がなくなったら、病気になったら、と、いつも不安がつきまといます。人々はこの時、そんな苦労から解放されることだけを望みました。
しかし、それはイエス様がお教えになりたいことの、ほんの一部にすぎませんでした。イエス様が本当にお伝えになりたかったことは、神様が自分を愛してくださっていると信じて平安を得、生き方そのものを変えなさい、ということだったのです。
仮に、どんなに貧しくても神様が共にいてくださる、と信じて生きるなら、心は豊かです。イエス様はそう信じる信仰をさして、「朽ちないパン」と言われたのです。神様と人間をつなぐ信仰を正しく与えることのできるのはイエス様だけです。イエス様は人々の信仰がもう一段階成長することを心から願って「わたしが命のパンである」と言われたのでした。
しかし残念ながらこの時、この場にはイエス様のお言葉を正しく理解したものはいなかったのです。やがてイエス様は民衆が見当違いな期待を押し付けようとすることを否定し、政治家や宗教家とも対立し、弟子たちにも理解されないまま、孤独の中で十字架の道を歩んでいかれました。
ただ、時間はかかりましたが、イエス様の復活の出来事は人々を変えていきました。神の御子であるイエス様が「私は命のパンである」と語られたのを思い出した時、イエス様がどれほどの愛の心と覚悟を持って、自分たちを救いに導こうとされたかに気づいていったのです。こうして人々は、朝に夕に食事をするたび、イエス様の守りと神様の愛を思い出し、導きに感謝して祈りをささげる者となっていきました。
本日の続き、37節でイエス様は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」とおっしゃっています。タイミングは少し後になりましたが、まさにイエス様が言われた通りのことが起こったのです。
私たちの日常は困難に満ちています。社会全体が大きな不安を抱えているとき「信仰があれば腹は満たされる」と言い切るのは非常に難しいと思います。けれども、信仰は、そうした状況の中でこそ鍛えられるものです。歴史の中の無数のキリスト者は、自分のために命を捨ててくださったイエス様が間違ったことをお教えになるはずがないとひたすら信じて祈り、信仰を研ぎ澄ませていきました。
私たちも困難の中にあるからこそ幼児のように信頼して祈り、神様の導き、配慮、愛を素直に受け、感謝するものとして歩んで参りましょう。
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