聖霊降臨後第12主日礼拝(2021年8月15日)
箴言9章1-6節 ヨハネによる福音書 6章51-58節
一般の方から「クリスチャンになったら、食べることが出来なくなる食べ物がありますか?」と質問されることがあります。キリスト教の母体であるユダヤ教には厳しい食物規定がありますが、キリスト教にはありません。それがはっきりとわかるのが使徒言行録の10章です。
イエス様の一番弟子のペトロが、伝道旅行の途中、不思議な幻を見ます。あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が大きな布に入れられて天からつり下ろされ、「それを屠って食べなさい」という主の声を聞くのです。しかしまだユダヤ教的な考えから抜けきっていなかったペトロは「清くないから」と拒みます。するとそれに対し、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とおっしゃいます。
この出来事の直後、コルネリウスという外国人がイエス様のお話を聞くためペトロを家に招こうとします。それまでユダヤ人は外国人の家を訪問するのは律法で禁じられていました。しかしペトロは先程の幻から「神様はイエス様の教えを広めるために、律法にこだわることをやめるよう教えてくださったのだ」と気づき、コルネリウスと交流を始めます。これをきっかけにイエス様の教えはユダヤ教の枠を完全に超えて、伝道は進展して行きました。こうしてキリスト教会の中からユダヤ教独自の生活習慣はどんどん薄れていったのです。
現在、プロテスタント教会においては食事の規定も服装の規定もありません。教派によってはお酒やタバコを止めるよう勧めるところもありますが、私たちのルーテル教会も含めて、そのあたり非常に寛大な教派が多いのです。外側から見てその人がクリスチャンかどうかわかることはまずありません。
教会内部でも、聖書知識や信仰にふさわしい考え方が身についたかどうか、確認する試験のようなものも特に行いません。神様は人間を愛するが故に、人間が自由な意思でご自分を慕うことを望まれるからです。
そもそも神さまの本質は愛ですから、愛される条件を人間の側が作る必要はないのです。神様は人間がまだ未熟な社会しか作れなかった時、倫理観を教えるために、つまり教育のために、細々とした掟をお与えになったのですが、そこを勘違いしたために、掟が先行し、神様の愛が見えなくなってしまったのです。
神様が愛であるという事実を後の世にも伝えるために、神様はイエス様のなさること、おっしゃることを、人間の手を通して聖書として書き残す方法を取られました。そうして記された聖書は、聖霊なる神に導かれながら、次の時代に、次の時代に、と受け継がれて行ったのです。
聖書を通して、私たちはイエス様がご自身を「命のパン」とおっしゃったこと、そしてその意図もおぼろげにでも理解することができます。私たちが神様の愛に気づき、自分自身の信仰を養い育てるために、イエス様の御言葉を味わい、自分の血肉にすることの大切さを、日々感じるようになるからです。
ヨハネによる福音書は、この「パンを食べる」という表現に工夫を凝らしています。長い間イスラエルの民は、出エジプトの記念として過越しの祭りを守る折、パンを食べる時には立って食べなさい、急いで食べなさいと言われたことに従ってきました。けれども、イエス様がパンを食べなさいと言われた時、この「食べる」は、「噛み砕いて食べなさい、よく味わって食べなさい」という意味で書き記されており、「吟味して食べなさい」とも理解できる言葉です。
それは味の品定めをするということではなく、なぜ私たちは教会の聖餐式でパンを食べ、主の杯を頂くのかを考えることにあります。
それは決してお腹がすいているからということではなく、そこに込められた、イエス様の思い、神様の思いを味わいつつ、聖書を通して示された神様の愛が、私に具体的に与えられている。それが私の血となり、肉となり、私がイエス様、私たちがキリストの体となって、あらゆる困難や、迫害にあったとしても、神様から頂いた愛を貫いていく、そこに私たちが現代でも、聖餐を頂く意義があるのです。
多くの宗教の場合、何かを食べないことで、忠誠を示します。しかし、キリスト教の場合は、食べることで神様への自分の真心を示すのです。自分勝手に「相応しくないから」と食べるのをやめるのではなく、その場に招かれていることを素直に感謝して食事の席に連なるのです。そして、その場で、神様の愛を受け、この人生は、イエス・キリストと共にあるということを、個人個人が、そして、集められた共同体として、確認しあうのです。もし小麦粉アレルギーの方がいらっしゃれば、キリストの愛にならって、共に味わい、食せるものを見つけ出しましょう。遠慮なくおっしゃってください。
これから先、新型コロナの蔓延によって、いつリモートのみの礼拝になるかわかりません。その時は、各自が用意したものを別々の場所でキリストを味わう聖餐式になる可能性もあります。しかし私たちは、キリストに繋がり、愛において、自由な民です。形や掟に縛られることなく、キリストにある人生を共に覚え、キリストを命のパンとして食し、日々、歩んで参りましょう。
飯田は人形劇の盛んな街で
毎年夏になると、世界各国から人形劇の演者が集まる
「いいだ人形劇フェスタ」開かれてきました
私たちが転任してきた一昨年は
猛暑の中をあちこち見て回って
ふらふらになりました
台湾から来日した中学生の布袋劇 |
ストリートでもレベルの高い演目がありました |
しかしコロナ禍で昨年は中止
今年は規模を大幅に縮小して行われました
もしかしたら来年も以前のような
盛大な催しはできないかもしれませんが
この特色あるお祭りが絶えないようにと
願っています
写真は街中の時計台
毎日正刻になると扉が開き
マスコットの「ぽお」が
コロナに負けじと楽しいダンスを披露しています
0 件のコメント:
コメントを投稿