2019年10月7日月曜日

赦しと信仰(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝・聖餐式(緑) (2019年10月6日)
ハバクク書2:1-4 Ⅱテモテ 1:3-14 ルカ17:1-10


 スポーツの秋ですね。9月28日(土)はルーテル幼稚園の運動会でした。牧師もいろいろな競技に出させていただだきました。
 運動会で子ども達が賛美する歌に「力」という曲があります。
「神さま、ください、元気な力を みんなと一緒に、遊ぶ力を
 神さま、ください、助ける力を みんなと一緒に、助ける力を。
 神さま、ください、信じる力を みんなと一緒に、生きる力を。」
 クリスチャン家庭の子どもでない彼らがどこまで歌詞の内容を信じているのかはわかりませんが、一人一人、本当に力一杯歌います。この歌詞は大切なことを教えてくれるなあと思うのです。

 人の信仰を否定することは、場合によってはご自分が神を信じないということよりも罪が深いのです。神様を信じている誰かに、「イエス様を信じたってなんでも願いが叶うわけじゃないよ」ともっともらしく教え、神様不信に陥らせることを「人を躓かせるやってはならない事」とイエス様はおっしゃいます。 

 信仰の仲間のみんながみんな「そのお願いはとってもいいね」と言えるような立派なお祈りをするわけではなく、時には「それはどうかな」と言いたくなる願いを神様に申し上げることがあります。それを聞いて思わず口を出してしまう、そんなことが弟子の間でもよくあったからでしょう。
 イエス様の弟子達も「出世したい」と願ったり「ローマ帝国をぶっ壊したい」と願ったり。信仰に力があることをイエス様から教われば教わるほど、突拍子もない願いを抱き、仲間同士で口喧嘩になることもありました。

 しかしイエス様は信仰の基本を根気強く繰り返し彼らにお教になりました。信仰の仲間が何を祈るにしても、それはそれで神様にお任せすべきであり、そんな祈りや思いは幼稚だ、自分勝手だ、といって裁くのではなく、神様ご自身が祈った人に何らかの回答をくださるのだから、あなたが神様の代理人になった気分であれこれ言うのは、小さい者を躓かせることだ、と言われたのです。
 弟子はその時は十分には理解できずとも、なるほどと思いながらお話を聞き「では私たちの信仰を増しくわえてください」と願ったのです。

 やがて、イエス様の十字架の出来事を経て、聖霊なる神に支えられた弟子達は飛躍的に成長します。厳しい迫害も受けましたが、これから後、彼らの信仰が失われることはありませんでした。
 彼らは地中海沿岸を中心に、価値観も言葉も習慣も異なる民族に伝道し、同じ信仰を持つ仲間として受け入れ、新しい教会を立て上げていったのです。
 実際には信徒同士の揉め事に悩まされることもあれば、地位のある人々が教会を間違った方向に持っていこうとすることもありました。しかし彼らは挫けることも諦めることもしませんでした。
 信仰者達は苦難の中で全ての悩みを神様に申し上げながら、教会という信仰の群れを守り続け、一つ一つの問題を信仰の力によって乗り越えながら、次の世代へと繋いでいったのです。

 先ほど読んでいただきました旧約聖書のハバクク書には興味深い部分があります。この書は紀元前600年頃に書かれましたが、その時代は、律法がすたれ、正義が破れた時代でした。ハバククの叫びは切実です。「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」
 あまりにも長い間祈りが聞き入れられない時、人は信仰を捨ててこの世的な価値観に流れることもありますし、現実から目をそらして修行僧のように禁欲的な信仰の世界に閉じこもることもできます。
 しかしハバククは、ただひたすら神に向かって「なぜですか」「どうしてですか」「いつまでですか」と疑問をぶつけ、神様からの回答があると信じて苦しみ嘆きながら問い続けたのです。全力で問いかけるハバククの姿は不信仰の現われではなく、むしろ信仰の表明でした。

 そんなハバククに向かって神がお答えになります。ハバクク書2章3節の後半で神様ご自身がこう言われます。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」
 これは彼の求める答えとは違っていたでしょう。それでもハバククは神が見ていてくださることを確信し、この御言葉を書き記したのです。

 新約時代の信徒達は、聖書を通して遠い過去から受け継がれてきた神様のメッセージを自分の出来事として受け取り、自分の力に変え、現代の私たちへと繋いでくれたのです。私たちも彼らの姿勢から学び、一つ一つの御言葉を自分の力にしていく必要があります。

 毎日毎日、不平や不満、なぜですかという疑問が私達を襲います。それなのに聖書からは「愛せよ、赦せよ」そして「待っておれ」という言葉しか聞こえない時があります。それは時には残酷ですらあります。
 しかし、ただ私達は神が、キリストを通して示してくださった最終回答「私はあなたがたを愛している」という思いを信じるものです。その信仰を持つなら、目の前の苦しみや誰かから与えられた躓きも、乗り越える力を持つことができます。
 キリストが教えてくださったように、罪を赦すことや、裏切られたことを赦すという「不可能」が可能になるのです。




散歩に出かけると
金木犀の良い香りがあちこちから漂ってきます


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