2019年10月28日月曜日

義とされて(日曜日のお話の要約)

宗教改革主日・聖餐礼拝(赤) (2019年10月27日)
申命記10:12-22 Ⅱテモテ 4:6-18 ルカ18:9-14

 本日の礼拝は「宗教改革」を記念して行っています。ルターが宗教改革の口火を切ってから502年が過ぎました。ちなみに私たちの教会の「ルーテル」とは、この宗教改革者「ルター」の名前の発音違いです。つまり「ルーテル」と「ルター」は、同じ人物です。

 500年前、世界の中心はヨーロッパで、そのまた中心はカトリック教会の教皇でした。カトリック教徒にあらずんば人にあらず、と言った世界で、教会は絶対的な権力を持ちましたが、その内側はかなり堕落していました。教会の言うことに逆らえば地獄行きだぞ、地獄に行きたくなければ罪の許される免罪符を買いなさい、と言う具合です。
 聖書は一般の人が読むことは禁じられていましたから、庶民は当時の教会の作り出した「裁く神」のイメージを信じ込まされていました。しかし、やがて、「それではいけない、みんなが正しく神様の言葉を聞かなくては」と立ち上がった人々がヨーロッパ各地に出現しましたが、「神に逆らうもの」として次々に死刑になりました。
 そのような中、生き残って改革を成功させたのがルター、つまりルーテルだったのです。ルターたちが始めた運動は、権力に反抗する者、抗議者と呼ばれ、ここから「プロテストする教会」、「プロテスタント教会」と呼ばれるようになりました。

 プロテスタント教会の誕生は、当時のカトリック教会に危機感を抱かせました。ヨーロッパでプロテスタントの勢いが強まれば、カトリック教会の信徒が減ってしまう、と考えたのです。その頃ちょうど、大航海時代が始まり、商人たちは冒険の旅に出はじめます。そこでカトリック教会は絶大な資金にものを言わせてスポンサーとなり、新しい信者の獲得のため、宣教師たちを船に乗せて海外へと送り出しました。フランシスコ・ザビエルもこの流れに沿って、1549年に日本にやってきたわけです。

 さて、本日のルカ福音書の「ファリサイ派と徴税人のたとえ」は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」イエス様が話された例え話です。
 このたとえに登場する二人の人物の祈りは対照的です。1人目のファリサイ派の人は自分が「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」ではないとアピールして、十戒のすべてを守っていることを告げます。そしてさらに「この徴税人のような者でもない」と言い添えます。彼は「守るべき掟」以上のことを実践しています。彼が「自分は正しい者だ」と自信を持つのもうなずけます。
 これに対し、もう1人は徴税人でした。ファリサイ人から「この徴税人のような者」と蔑まれた張本人でした。この時代、徴税人というのは悪知恵を働かせて仲間に高額の税金をふっかけ、その一部を自分の懐に入れることで知られていました。ですから徴税人といえば「罪人」の代名詞でもあったのです。
 その彼は、本殿から「遠くに立って」います。彼は胸を打って自分の弱さを悲しみます。「罪人のわたしを憐れんでください」と、自ら「罪人」であることを認めています。
 イエス様はこの二人の祈りを比較して、例え話をこう締めくくられています。「義とされて家に帰ったのは徴税人の方で、ファリサイ派の人ではない」。神様が正しいと認められたのは徴税人の方だった、と言われるのです。

 マルチン・ルターはこの福音書の箇所について、このような説教をしています。『ファリサイ人が「神よ、あなたに感謝します」と祈りはじめるとき、神はさえぎって、「そうだ、そうだ、そうだ、おまえが神を必要としないことが、おまえが神の善意とあわれみと、神のすべてを軽んじたことが、十分にわかった」と言われます。』
 ファリサイ派の人の祈りは、自力でちゃんとやれていることをアピールする言葉ばかりです。本人は気づいていないかもしれませんが、自分の人生に神様からの力添えは必要ないと言わんばかりです。
 イエス様はこのような態度を称して「うぬぼれる」と言われたのです。このような生き方は神の目に義とされない、つまり正しいとは認められないと告げられました。
 しかし、徴税人は、自分のどうしようもない弱さ、情けなさに苦しみ、神様の憐れみに頼らなければ生きていけない自分をさらけ出したのです。そのような祈りをイエス様は喜ばれました。なぜなら、イエス様は、自分を正しいと思い込んでいる人のために地上にこられたのではなく、罪に苦しむ人に語りかけ、あなたは神様に愛されている、と告げ知らせるためにこられたからです。

 「自分自身を頼りにする」「自信を持つ」のは、一般的には称賛される生き方です。しかし聖書には、詩編103編にも見られるように「憐み深い神は、わたしたち人間をどのように造るべきかを知っていて 人を弱くはかなく造った」と記されています。人間に、なぜ努力で埋め合わせる事のできない弱さがあるのか、の答えとして、詩篇の作者は「それは神の憐みに出会う機会が与えられるためだ」と歌っています。
 寂しさも弱さも、神様と出会うために、生まれる前から私たちの内側にセットされていたのだと、聖書は教えているのです。

 私たちは「宗教改革」を記念する今日、ここで、イエス・キリストを礼拝しています。欠点も弱さもある私たち一人一人を大切な存在と認めてくださる神様と出会えたことに感謝してまいりましょう。ルターさえも自分の弱さを知っていました。私たちは弱い故に神様に愛され、祝福され、用いられるためにここに集っているのです。


幼稚園の木の臼が古くなったため
前任の教会から使用していない石臼を頂いてきました
この臼は一度に3升つけるそうです
11月7日は楽しいお餅つきになりそうです

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