2019年10月14日月曜日

感謝するのは難しい(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(緑) (2019年10月13日)
列王記下5:1-14 Ⅱテモテ 2:8-13 ルカ17:11-19


 本日の福音書は10人の重い皮膚病の人をイエス様が癒された出来事です。この時、イエス様は「エルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られ」ます。この旅は、いよいよ十字架に掛かり死ぬことが目的であり、イエス様は堅い決心をしてエルサレムに向かわれる途中でした。
 「ある村」とは、伝染性の病にかかった人々が隔離され、共同生活をしている場所でした。聖書に重い皮膚病と書かれているのは大体「ハンセン病」と理解してよいでしょう。以前は「らい病」と書かれていましたが、日本では強い差別感を引き起こすため、「重い皮膚病」と書き換えられました。
 ※実際はらい菌の感染力は非常に弱く、治療法が確立した現在では治る病気です。

 イエス様の時代、この病気は非常に恐れられ、皮膚に炎症のできた患者は、祭司に見せに行くことが律法で定められて、祭司が聖書の定めに従って判断しました。「重い皮膚病」と判断されれば、患者は人里離れた不便な場所に隔離されました。祭司から「あなたは汚れている」と宣告された病人は、「私は汚れたものです」と呼ばわりながら、宿営の外に出て、家族と離れて住まなければなりませんでした。病人は病の苦しみだけでなく、親しい人々と接触を禁じられ、地位や名誉も失いました。
 そのような病人を隔離する場所は、沢山設置するわけにはいかないので、対立関係のユダヤ人とサマリア人であっても、両方の場所が近ければ、この村のように共に収容されることもあったようです。
 もしもある朝、目覚めて皮膚が元通りになっていたならば、すぐに祭司の所に飛んで行き、「あなたは清い」と宣言してもらおう。何度もそんな夢を見たことでしょう。しかしそのような奇跡は起きなかったのです。

 この10人は、この頃すでにイエス様の噂を伝え聞いていたと思われます。他に何も望みのない彼らは、もしイエス様が来られたなら自分をいやしてくださるだろうに、と思っていたはずです。しかし彼らは自分でイエス様を呼びに行くことはできません。なんとか通りかかってくださらないものか、とひたすら願っていました。
 その思いが神様に通じたのでしょう。十字架に向かって旅をするイエス様とその一行が、その村を通りかかったのです。
 重い皮膚病の人は健康な人に近づくことは禁じられていたので、遠く離れたところから声を張り上げて「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と口々に叫んだのです。
 彼らはイエス様から癒していただけるなら、どんな厳しい治療でも従う気持ちでした。しかし、彼らをご覧になったイエス様は、ただ「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とおっしゃっただけでした。

 病人はこの場所から勝手に出ることは禁じられていましたが、イエス様が行けとおっしゃるならそうしよう、と彼らは出発します。そして10人全員、祭司の元へ行く途中で病が癒されたのです。
 1人を除いて、9人は祭司のところへ急ぎます。祭司に体を見せ、清くされたことを確認してもらったでしょう。治癒が認められれば、すぐに律法に定められた清めと感謝の儀式が始まります。彼らは心の中でイエス様に感謝しながらも、祭司に言われるままに儀式の準備に追われたことでしょう。
 9人とも、自分達を癒して下ったのはイエス様であり、その向こうにおられる神様であることを知っていました。しかし夢にまで見た社会復帰が目前であることに夢中で、彼らはイエス様にお礼を言う機会も、信仰告白をする機会も失ってしまいました。そして神様との本当の意味での繋がりもここで切れてしまったのです。
 
 しかしたった1人、サマリア人だけは、祭司のところへ行く前にイエス様の元にUターンしたのです。彼は神を賛美しながら戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏し「感謝」しました。
 サマリア人にしても、すぐに家族の元に帰りたかったことでしょう。しかし、彼は今しなければならないことが何かわかっていました。異邦人の自分さえ憐れんで癒してくださったイエス様と神様に、心からの感謝の言葉を伝えたい。祭司に会うのはその後でいい。
 サマリア人はイエス様こそ神様であることを信じ、戻ってきます。その信仰をイエス様は大いに喜ばれたのです。サマリア人の感謝の言葉はそのまま信仰の深さを告白する言葉となりました。それは十字架で多くの人々に罵られながら不条理な死を迎えることになっているイエス様にとって、大いに慰められる出来事だったに違いありません。

 私たちも、礼拝の中でイエス様に向かって「使徒信条」や「ニケア信条」を用いて「信仰告白」をします。しかし、それがいつの間にかお題目のようになってしまってはいないでしょうか。
 信仰告白は、イエス様への感謝が込められてこそ意味を持つものです。自分のようなものが癒され、きよめられた、そしていつの日かイエス様が用意してくださっている天国へと導かれる。それを信じて日々歩める喜び。この喜びと感謝を言い表す事こそ、イエス様が最も喜んでくださる信仰告白なのです。
 信仰生活に慣れっこになれば、「感謝することは難しい」かも知れません。確かに、サマリア人のような劇的なことは私たちの生涯には起きないかもしれません。しかしどれほど小さなことにも喜びと感謝を見出すことはできます。私たちも信仰の告白の機会を無駄にせず、共に歩んで参りましょう。

教会の方から「食用菊」をいただきました
話には聞いていましたが、食べるのは初めてです
花びらをむしってさっと茹で、醤油をかけていただきました



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