マタイによる福音書第3章13節-17節、2017年1月15日(日)、主の洗礼日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第42章1節-7節、使徒言行録第10章34節-38節、讃美唱45(詩編第45編2節-9節)
マタイによる福音書第3章13節~17節
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
説教「正しいことを皆行うために」(マタイ3:13-17)
今日は主の洗礼日という特別の祝日です。2017年の年明けから間もないこの主の日に、主イエス御自身が自ら洗礼をお受けになったという今朝の福音、マタイ福音書第3章の13節から17節が読まれました。
なぜ、罪なきお方としてお出でになられた、神の子にして、救い主メシアである主イエスが、洗礼者ヨハネの施していた悔い改めの洗礼に与る必要があったのでしょうか。この点について、今回は、特に、マタイ福音書の14節、15節を中心としながら、ご一緒に考えてみたいと思います。
主イエスは、ガリラヤから、ヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとに、到来なさいます。そして、悔い改めの洗礼の促しに従って、民衆たちにまじって、洗礼を受けようとしてお出でになられました。
ヨハネは、私は水で、悔い改めの洗礼を授けているが、私の後に来られる方は、私よりもはるかに力ある方であって、その方は、聖霊と火とであなた方に洗礼を授けようと公言していたのです。だから、あなた方は悔い改めにふさわしい実を結べと、言われ、実を結ばないでいる木は切り倒されて、火の中に投じられると迫っていたのです。
ところが、そのはるかに力ある方が自分のほうへお出でになられると、それを止めようとします。「私こそ、あなたから、洗礼を受ける必要がある身ですのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか」と。
主は、「今はそのままにさせて欲しい、なぜなら、正しいことを皆行うことは、我々にふさわしいことだからだ」とお答えになります。
ヨハネは正しい人で、人々に悔い改めを迫り、自らに厳格な生活をしていましたが、主のみ前にあっては、人間として決して完全無欠とはいえなかったことでしょう。それで、主が自分の授ける洗礼に服することには、耐えられない思いだったでしょう。
しかし、主イエスは、あなたとの間でこのことが行われるのは、すべての義が満たされるためだと、ヨハネに言い聞かせるのであります。
そして、それは、それ以上に、そばにいた民衆どものためにも相応しいことであると、主イエスは言っておられるのではないでしょうか。
神の子としてお生まれになったイエスは、どこまでも神の義が満たされるために、この洗礼に従ったのであります。神の意志は、主イエスが、民衆と同じように、悔い改めの洗礼を受けさせることであった。
そして、その時、見よと、記者は記します。天が開かれ、鳩のように聖霊が彼のほうへとやって来るのを主は御覧になった。鳩のように聖霊が降るというのは、ノアの箱舟の鳩が新天新地が始まったことを示したように、また、創世記の始めに、うごめく霊が水の面をうごめいていたように、それが新しく、主イエスの洗礼のときにはじまったことを示しています。
そして、見よ、と記者は今度は、天から声が成ったと記しています。「これは、わたしの愛する子、私の心に適う者」との神の声がその場にいた人々にも分かる客観的な神の声として、聞かれたのであります。
主イエスは、どこまでも、神の子として、愛してくださる父なる神の声に従ったのであります。
それによって、私たちは、確かな足取りで、まことの希望を手にして、新しい一年を歩むことが許されているのであります。アーメン。
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