2017年1月1日日曜日

説教「犠牲をも担われる神さま」(マタイ2:13-23)

マタイによる福音書第213-23節、201711日(日)、降誕後主日礼拝、(典礼色―白―)、イザヤ書第637-9節、ガラテヤの信徒への手紙第44-7節、讃美唱34/1(詩編第342-9節)

  マタイによる福音書第213節~23節 

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
 「ラマで声が聞こえた。
 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、
 慰めてもらおうともしない、
 子供たちがもういないから。」

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


説教「犠牲をも担われる神さま」(マタイ213-23

 3人の博士たちのみ子訪問の出来事が、来週読まれますが、今日はその後の出来事です。博士たち、マギたちは、ヘロデ大王の下に報告に戻るように命じられていたのですが、夢で主のお告げがあって、別の道を通って、自分たちの国へと帰っていきます。
 それによって、み子は逃れる時間ができたとも言えます。父ヨセフは、博士たちが、立ち去って行ったとき、夢で天使が現れ、その命ずるままに、夜に起き上がり、その子と母を連れて、エジプトへと、難を逃れるのであります。
 そして、ヘロデは、博士たちに馬鹿にされたことを知ると激怒して、ベツレヘムとその近隣へと人をやって、2歳以下の男の子を、虐殺したのです。
 これによって、預言者エレミヤが言っていた言葉が満たされたと言います。このような記録は、他の証拠によっては証明できないそうです。
 しかし、ヘロデは稀に見る残酷な王でありました。自分の最愛の妻マリアンネをも疑って殺し、最後は、自分の息子たちや叔父まで謀反の疑いで殺していったと言います。
 一方で、ヘロデは、エルサレム神殿を回復し、人々が礼拝できる場を取り戻し、優れた政治的手腕を発揮しましたが、他方では、考えられないような、疑心暗鬼の中での蛮行にも及んでいるのです。
 しかし、ヘロデ大王の姿は、私たちとは無縁のものでしょうか。私どももまた、自分本位となって、他人を犠牲にして顧みない残酷さや罪の姿を露出しているのが、偽らざる実情ではないでしょうか。
 こうして、この時の残酷な虐殺が行われ、無辜の幼子たちの命が奪われていったのであります。そういう現実はどのように考えればいいのでしょうか。
 マタイは、この出来事は、「ラマにおいて、声が聞かれた、泣き悲しむ声、大いなる嘆きの声だ。ラケルは、自分の子たちがもういないので、慰めてもらおうともしないでいた」というエレミヤの言葉が満たされるためであったと言います。
 ラケルは、自分の産んだ子ヨセフがエジプトに売り飛ばされたとき、夫のヤコブ、イスラエルと共に嘆き悲しみました。そして、エフラタの辺り、ベツレヘムの近くで、もう一人の子ベニヤミンを産んだとき、亡くなり、その傍の墓地に葬られました。
 エレミヤ書の預言の言葉は、アッシリアへと、ラマから捕虜として連れて行かれるときの、彼らの先祖、ラケルが連れて行かれる特に男の壮年や子たちを思って嘆くというものであります。
 その預言の言葉が、マタイは、このときのヘロデの嬰児虐殺を通して実現されたというのであります。
 この出来事に対して、ボンヘッファーという牧師にして神学者は、この子供たちは祝福されていると言っているとのことです。なぜなら、この子たちと共に、主イエスがおられるからだと。そして、ナチに抵抗し、ヒトラーを暗殺しようとして、失敗して捕まったボンヘッファーも、銃殺刑によって命を落とすことになります。
 クリスマスの出来事とは、このような大きな犠牲をも、神が自分の身をかがめて担ってくださる出来事であります。ヘロデが自分の権力保持のためにしでかす罪は、単なる他人事ではなく、私どもの生活の中にも露になってくる罪の姿をも表しています。それを取り除いてくださるために、み子がお生まれになったとも言えるのであります。
 夢の中で天使のみ告げを知らされたヨセフは、従順に神の導きに従い、エジプトにくだり、また、イスラエルの地に戻り、入って来ます。モーセがそうしたように、イスラエルの民の率いて救いを成し遂げたように、第二のモーセとして、また、新しいイスラエルとしてみ子イエスは、エジプトから戻ってきます。
 そして、神の導きのままに、ヨセフとその一家は、ベツレヘムへではなく、ガリラヤのナザレへと落ち着くことになるのです。それは、彼は、ナザレの人と呼ばれようとの預言者たちの言葉が実現するためであったと言います。旧約聖書にも出てこない小さな村ナザレの人イエスと呼ばれる。そこにまで身を低くして、私たち罪人のために降りて来てくださるというのが、クリスマスのメッセージであり、私どもの何ものにも勝る慰めなのです。
 あの母親、ラケルの墓で嘆き悲しむ声は、神にまで届き、その悲しみは癒され、希望が回復されるものだというのです。私たちが、罪から回復されて、新しい人となって生きてゆけるとの知らせ、それがクリスマスの訪れであり、喜び祝う意味なのです。そのような新しい生き方を、この一年の初めの日から求めていきましょう。アーメン。

 

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